2008年10月23日
再びスプリントベローチェ塗装
自家塗装で小汚くなってしまった僕のスプリントベローチェ。デコボコのボディに安っぽい黒の塗装。すっかりゴキブリベスパに成り下がってしまっていた。それに業を煮やした僕は、雨季が上がるのを待って再び全塗装に踏み切ったのだった。今回もなるべくオリジナルというコンセプトは同じで、色は150GLの純正色のアイボリーに決定した。シートもWシートに変更して、メーターも奮発してオリジナルのピアジオメーターを入手した。
半日がかりでエンジン以外をばらばらにして、塗装部品はそのまま偶然発見したベスパ専門の塗装屋に持って行き、待つこと1ヶ月。ピカピカに塗装されたボディは期待以上の輝きを放っていた。しかしすべての穴をパテで埋められてしまっていたので、フロアーのレールを取り付けるのに相当苦労した。
今回は2回目ということもあり、サクサクと組み立てて、ついでにクラッチ交換もして(インドクラッチ板なのでポン付けできず、ひたすらヤスリで研磨)、三日間で完成した。ベスパパーツ屋の最新作のULMA風リアキャリにドイツ製のオレンジ色のカウルミラーを装着した新車となった僕のベスパは、クラシカルなカラーに台形の角目ヘッドライトはやけに似合い、現在に至るまでこのままの形で乗り継いでいるのである。今回は日本から持って帰ってきたスモールボディ用のウインカーキットをハンドル横に取り付けて、タイ唯一のハンドルウインカー付きスプリントが完成したのである。
コンセプトはイタリアのおっさん仕様なのであるが、前回はスプリント前期モデル仕様だったが、今回は後期仕様である。素人にはさっぱり分からないと思うけど、いろいろと違いがあり、ピアジオマークが四角→六角、ロゴがVESPA S→VESPA SPRINT等々微妙に違うのである。今回は入手したメーターが後期モデル用だったために後期モデルにしたのである。
塗装してからかれこれ2年近くが経過し、相変わらず通勤に使用しているのですでに色が変色し、どんどん黄ばんでいるので年明け早々にも再度お色直しが必要かも。今度は緑かなぁ。

(ワーゲンと150STDとお色直ししたスプリント!左から41歳、43歳、38歳で合計122歳)
半日がかりでエンジン以外をばらばらにして、塗装部品はそのまま偶然発見したベスパ専門の塗装屋に持って行き、待つこと1ヶ月。ピカピカに塗装されたボディは期待以上の輝きを放っていた。しかしすべての穴をパテで埋められてしまっていたので、フロアーのレールを取り付けるのに相当苦労した。
今回は2回目ということもあり、サクサクと組み立てて、ついでにクラッチ交換もして(インドクラッチ板なのでポン付けできず、ひたすらヤスリで研磨)、三日間で完成した。ベスパパーツ屋の最新作のULMA風リアキャリにドイツ製のオレンジ色のカウルミラーを装着した新車となった僕のベスパは、クラシカルなカラーに台形の角目ヘッドライトはやけに似合い、現在に至るまでこのままの形で乗り継いでいるのである。今回は日本から持って帰ってきたスモールボディ用のウインカーキットをハンドル横に取り付けて、タイ唯一のハンドルウインカー付きスプリントが完成したのである。
コンセプトはイタリアのおっさん仕様なのであるが、前回はスプリント前期モデル仕様だったが、今回は後期仕様である。素人にはさっぱり分からないと思うけど、いろいろと違いがあり、ピアジオマークが四角→六角、ロゴがVESPA S→VESPA SPRINT等々微妙に違うのである。今回は入手したメーターが後期モデル用だったために後期モデルにしたのである。
塗装してからかれこれ2年近くが経過し、相変わらず通勤に使用しているのですでに色が変色し、どんどん黄ばんでいるので年明け早々にも再度お色直しが必要かも。今度は緑かなぁ。
(ワーゲンと150STDとお色直ししたスプリント!左から41歳、43歳、38歳で合計122歳)
2008年10月23日
Bangkok VW Classic No.3 に参加
昨年2月にタイ国内最大のVWイベントがファッションアイランドで開催された。タイ最大といってもたかが知れているのだが、参加台数200台弱の空冷ワーゲンをはじめ、水冷ワーゲンなんかも混じって何だか結構盛り上がっていた。NO.3と銘打っているのだから今回で3回目なのだろうが、僕は今回が始めての参加だった。もちろん日本人は僕一人。
ファッションアイランドという新しくできた遊園地が会場だったのだが、このイベントからかれこれ1年半以上が経とうという現在でも、観覧車や絶叫マシーンが動いていることを見たことがないという不思議な場所だった。
ショーカーコーナーとフリーマーケットが会場内、その他の車は駐車場に自慢の車を並べてお互いの車の見てカスタムの参考にしたり、いろいろ情報交換をしたりする何ともいい感じの雰囲気だった。フリマではいっぱい欲しいものがあるのだが、万年貧乏の僕はただ指をくわえて見るだけなのである。意外にもBRMやスプリントスターなどのFLAT4ホイールも販売され、想像以上にいろんな物が入手可能である。
基本的にはただ車を並べて車自慢、車談義、部品の物色がメインなのだが、いろいろイベントも催されていて、ワーゲンジムカーナ大会や車を押して50m競争やバンドなんかもイベントを盛り上げていた。僕にはさっぱり分からなかったがいろんな芸能人も見物に来ていたりしていた。
そしてこの時はじめて知ったのだが、THAI VW CLUB(TVC)という空冷ワーゲンのクラブが存在しており、ここにはかなりレベルの高いビンテージカーばかりが集まり、タイのワーゲンカルチャーを牽引していた。この後このTVCのイベントにちょこちょこ参加したのだが、この中でもキャルルックチームがあり、これに加盟することを目論んでいるのだが、アメリカのキャルルックの生みの親のDKPを強烈に意識しているらしく、加盟するには細かなルールが存在している。僕のビートルは車高がノーマルなので、今のところ加盟することができないでいるのである。いつか車高落とし+ナロードして加盟してやろうというのがここ最近の悪巧みである。

(観覧車とアーリーバス。とっても絵になるのだ。ほ、欲しい)

(タイでは貴重なアーリーバス。フロントがVの字なので、ナーウィーと呼ばれてます)

(ワーゲンでジムカーナ。僕の車はオイル漏れ中なので参加できず)

(オートメーターが社外についているTAXIワーゲン。目立った者勝ち)

(TVCの車両。ホイールが僕と同じなので勝手にライバル視してます)

(幻のヘッブミューラー??本物なのか?)

(このイベントでは僕のワーゲンはその他の1台と成り下がってしまっていた。。)
ファッションアイランドという新しくできた遊園地が会場だったのだが、このイベントからかれこれ1年半以上が経とうという現在でも、観覧車や絶叫マシーンが動いていることを見たことがないという不思議な場所だった。
ショーカーコーナーとフリーマーケットが会場内、その他の車は駐車場に自慢の車を並べてお互いの車の見てカスタムの参考にしたり、いろいろ情報交換をしたりする何ともいい感じの雰囲気だった。フリマではいっぱい欲しいものがあるのだが、万年貧乏の僕はただ指をくわえて見るだけなのである。意外にもBRMやスプリントスターなどのFLAT4ホイールも販売され、想像以上にいろんな物が入手可能である。
基本的にはただ車を並べて車自慢、車談義、部品の物色がメインなのだが、いろいろイベントも催されていて、ワーゲンジムカーナ大会や車を押して50m競争やバンドなんかもイベントを盛り上げていた。僕にはさっぱり分からなかったがいろんな芸能人も見物に来ていたりしていた。
そしてこの時はじめて知ったのだが、THAI VW CLUB(TVC)という空冷ワーゲンのクラブが存在しており、ここにはかなりレベルの高いビンテージカーばかりが集まり、タイのワーゲンカルチャーを牽引していた。この後このTVCのイベントにちょこちょこ参加したのだが、この中でもキャルルックチームがあり、これに加盟することを目論んでいるのだが、アメリカのキャルルックの生みの親のDKPを強烈に意識しているらしく、加盟するには細かなルールが存在している。僕のビートルは車高がノーマルなので、今のところ加盟することができないでいるのである。いつか車高落とし+ナロードして加盟してやろうというのがここ最近の悪巧みである。
(観覧車とアーリーバス。とっても絵になるのだ。ほ、欲しい)
(タイでは貴重なアーリーバス。フロントがVの字なので、ナーウィーと呼ばれてます)
(ワーゲンでジムカーナ。僕の車はオイル漏れ中なので参加できず)
(オートメーターが社外についているTAXIワーゲン。目立った者勝ち)
(TVCの車両。ホイールが僕と同じなので勝手にライバル視してます)
(幻のヘッブミューラー??本物なのか?)
(このイベントでは僕のワーゲンはその他の1台と成り下がってしまっていた。。)
2008年10月12日
ランブレッタ売却とベスパ150STD購入
ランブレッタLi-2。購入したは良いことの、購入して家に辿り着く前にエンジントラブルで即入院。その後も入退院を繰り返したあげく、やっかいものということで家の置物になっていたのである。ある日、突発的にこいつを売って他のスクーターを買おうという衝動に駆られ、すぐにインターネット上で売りに出したのである。そしてひっかかったのは、坊ちゃんタイ人だった。現車を見るためにおやじのベンツでやってきたそいつは、その場で購入を決意したはいいことの、20歳を越えているというのにお母さんに「買ってもいい?じゃあお金振り込んでね」と電話で許可をとっていた。学生の頃、車やバイクを買うために必死にバイトしていた僕にとっては何とも許せない野郎である。そんな奴にはボロを売りつけてやるのが一番である。どうせ自分で稼いだ金じゃないんだから。
そしてまとまった金が手に入った僕は、次に買うスクーターの選定にはいった。欲しいのはベスパ160GSなのだが、まったく手が出ない。予算は75000Bまでなので、ボロであればベスパ180SSや57~59年式のベスパ150STD、ランブレッタのスリムライン(SXシリーズ)なんかも買えるのだが、やっぱりピカピカでレストア済みのスクーターに乗りたい。ボロを買って修理の連続はもうコリゴリなのである。という訳で、レストア済みで購入できる機種として、予算的にはキリギリなのだが、下記の機種が候補に上がったのである。
1・ベスパ150GL(角目のスプリントと似ているが、ボディが丸みを帯びており、マニア好み)
2.59年~64年のベスパ150STD(タイで若者に大人気の機種。比較的入手が簡単)
3.スモールフラップのベスパ90(エンジン横のフタが小さいのは希少なのである)
しかしベスパ150GLはタイでの存在個体数が極端に少ない上に、スプリントを板金技術で150GLに仕立てているものが大半で、いまいち信用できない。ベスパ90はやはり遅いし、部品の入手に難がある。というわけで一番問題なさそうでかわいいベスパ150STDに決定したのである。
本当の名前はベスパ150なのだが、ベスパ150という名前は歴代の150ccの標準モデルについていた名称なのだが、スワンネック後のベスパ150は総称として150STDと呼ばれる。タイでは1956~1958年までが58(ハーペーッ)、1659年~1964年までが64(ホックシー)と呼ばれており、58はエンジンの構造やハンドル、メーター、ボディの曲線美が64とは全然違い、もちろん58の方が高価で希少である。タイの相場では登録付きだとかなりのボロでも80000B~である。これをレストアし、欠品を探して購入するとなると120000B以上になってしまうのである。特にエンジン関係の部品はイタリア等から輸入しなければいけないのでエンジンを64用のものに積み替えている車体も多数存在するのである。
64も毎年のようにマイナーチェンジをしているのでボディーリアの形状やギアが3速だったりと各年代で仕様が違う。以前のブログで記載したとおり、この64はタイでは一番一般的と言ってもより機種であるのだが、実際の64の台数は少なく、大半がスプリント改造64かインドパジャジである。本物の64であれば、登録付きボロで70000B~が相場である。スプリント改造64であればレストア済みで65000B~、パジャジは55000B~程度である。見分け方については、スプリント改造64については外観からではほとんど分からない。ただひとつの目安として、ハンドルのギア表示部分がメッキの新しいものであれば改造64である可能性が高い。オリジナルはアルミなのである。ただ、オリジナル車でも消耗してリプロに変えてある場合が多いので一概にはそうとも言えない。それ以外には、オリジナルのこだわり車であれば、おそらくオリジナルのピアジオメーターにSIEMのオリジナルヘッドライトがついている可能性が高い。改造車の場合は、オリジナルメーターとオリジナルライトの入手が難しく高価(2つで5000B以上)なのでリプロ品をつけている事が多いのでそれも判断基準になるかもしれない。
完全に見極めたいのであれば、①車体番号・エンジン番号の確認②シート下の補強部分の形③ボディサイドの補強リブの形④ハンドル下のボディの配線が通る穴の形 等で判別できるのだが、③④は板金で修正していることが多いので参考まで。尚パジャジの場合はエンジンにパジャジマークがあるのですぐに分かります。ただボディに関しては、パジャジも64モデルがあるので車体番号以外では判別できないと思われます。
と前置きが長くなったが、僕も一応オリジナル150STDを購入することにしたのである。しかし上記の通り、僕の予算ではレストア済みの150STDは買えないのである。そしていきつけのベスパ屋の兄ちゃんとの相談の結果、ボディは本物の150STDだけどエンジンは65年式のスプリントのものが一台あるのだが、それであれば友達価格で何とか予算内に収まるという。64とスプリントのエンジンはほとんど同じなので、まーそれくらいいいだろうということで購入を決定したのである。
色は160GSの純正ホワイトにしようか150GSの純正シルバーにしようか迷いに迷ったあげく、汚れても目立たないシルバーに決定した。そして150GSカラーに決定してしまった都合上、どうしても150GSに近づけたくなってしまう僕なのだった。エンジンはスプリントという中途半端な150STDなので、どうせなら普通と違う一台にしてしまおうと、基本的なイメージは150GSVS1なので、同じようにフロントとサイドカウルをパテ埋めして滑らかにし、シートはWシートに鋲打ちを施した。それに加えて日本から取り寄せたスモールボディ用のウインカースイッチを増設し、最初にベスパを買った店が試作で作ったジャグテールコピーを強引に購入してウインカー仕様にしたのである(ベスパはラリー(仕向け地による)やスモールボディ等の一部のモデルにしかウインカーはついていないのだ。)。そしてついでにULMAバンパー(リプロ)とULMAホイールキャップ(本物)、メタルプラストのシェルミラー(リプロ)を取り付けて完成したのだった。(ULMAやメタルプラストは当時の代表的なオプションパーツメーカーです)
もちろんエンジンは完全オーバーホールされているので新車同様の乗り心地。スプリントベローチェやランブレッタと違い、このモデルはタイヤが8インチのためにブレーキが非常に効かない。ブレーキシューをドラムにすべて当たるように調節したり、シューにスリットを入れたりするのだが、とてもブレーキだけでは急ブレーキはできない。エンジンブレーキを併用しなければすぐにロックしてしまうのである。前輪に至っては自転車同様である。しかしこのベスパはとてもかわいく、シルバーのカラーも何だか近未来的なイメージで大満足なのだった。

(ぴっかぴかの150STD。なんだか近未来的なイメージ。タイヤは8インチなのでブレーキ効きません)

(あまりに綺麗なのでポストカードにしてみました)
そしてまとまった金が手に入った僕は、次に買うスクーターの選定にはいった。欲しいのはベスパ160GSなのだが、まったく手が出ない。予算は75000Bまでなので、ボロであればベスパ180SSや57~59年式のベスパ150STD、ランブレッタのスリムライン(SXシリーズ)なんかも買えるのだが、やっぱりピカピカでレストア済みのスクーターに乗りたい。ボロを買って修理の連続はもうコリゴリなのである。という訳で、レストア済みで購入できる機種として、予算的にはキリギリなのだが、下記の機種が候補に上がったのである。
1・ベスパ150GL(角目のスプリントと似ているが、ボディが丸みを帯びており、マニア好み)
2.59年~64年のベスパ150STD(タイで若者に大人気の機種。比較的入手が簡単)
3.スモールフラップのベスパ90(エンジン横のフタが小さいのは希少なのである)
しかしベスパ150GLはタイでの存在個体数が極端に少ない上に、スプリントを板金技術で150GLに仕立てているものが大半で、いまいち信用できない。ベスパ90はやはり遅いし、部品の入手に難がある。というわけで一番問題なさそうでかわいいベスパ150STDに決定したのである。
本当の名前はベスパ150なのだが、ベスパ150という名前は歴代の150ccの標準モデルについていた名称なのだが、スワンネック後のベスパ150は総称として150STDと呼ばれる。タイでは1956~1958年までが58(ハーペーッ)、1659年~1964年までが64(ホックシー)と呼ばれており、58はエンジンの構造やハンドル、メーター、ボディの曲線美が64とは全然違い、もちろん58の方が高価で希少である。タイの相場では登録付きだとかなりのボロでも80000B~である。これをレストアし、欠品を探して購入するとなると120000B以上になってしまうのである。特にエンジン関係の部品はイタリア等から輸入しなければいけないのでエンジンを64用のものに積み替えている車体も多数存在するのである。
64も毎年のようにマイナーチェンジをしているのでボディーリアの形状やギアが3速だったりと各年代で仕様が違う。以前のブログで記載したとおり、この64はタイでは一番一般的と言ってもより機種であるのだが、実際の64の台数は少なく、大半がスプリント改造64かインドパジャジである。本物の64であれば、登録付きボロで70000B~が相場である。スプリント改造64であればレストア済みで65000B~、パジャジは55000B~程度である。見分け方については、スプリント改造64については外観からではほとんど分からない。ただひとつの目安として、ハンドルのギア表示部分がメッキの新しいものであれば改造64である可能性が高い。オリジナルはアルミなのである。ただ、オリジナル車でも消耗してリプロに変えてある場合が多いので一概にはそうとも言えない。それ以外には、オリジナルのこだわり車であれば、おそらくオリジナルのピアジオメーターにSIEMのオリジナルヘッドライトがついている可能性が高い。改造車の場合は、オリジナルメーターとオリジナルライトの入手が難しく高価(2つで5000B以上)なのでリプロ品をつけている事が多いのでそれも判断基準になるかもしれない。
完全に見極めたいのであれば、①車体番号・エンジン番号の確認②シート下の補強部分の形③ボディサイドの補強リブの形④ハンドル下のボディの配線が通る穴の形 等で判別できるのだが、③④は板金で修正していることが多いので参考まで。尚パジャジの場合はエンジンにパジャジマークがあるのですぐに分かります。ただボディに関しては、パジャジも64モデルがあるので車体番号以外では判別できないと思われます。
と前置きが長くなったが、僕も一応オリジナル150STDを購入することにしたのである。しかし上記の通り、僕の予算ではレストア済みの150STDは買えないのである。そしていきつけのベスパ屋の兄ちゃんとの相談の結果、ボディは本物の150STDだけどエンジンは65年式のスプリントのものが一台あるのだが、それであれば友達価格で何とか予算内に収まるという。64とスプリントのエンジンはほとんど同じなので、まーそれくらいいいだろうということで購入を決定したのである。
色は160GSの純正ホワイトにしようか150GSの純正シルバーにしようか迷いに迷ったあげく、汚れても目立たないシルバーに決定した。そして150GSカラーに決定してしまった都合上、どうしても150GSに近づけたくなってしまう僕なのだった。エンジンはスプリントという中途半端な150STDなので、どうせなら普通と違う一台にしてしまおうと、基本的なイメージは150GSVS1なので、同じようにフロントとサイドカウルをパテ埋めして滑らかにし、シートはWシートに鋲打ちを施した。それに加えて日本から取り寄せたスモールボディ用のウインカースイッチを増設し、最初にベスパを買った店が試作で作ったジャグテールコピーを強引に購入してウインカー仕様にしたのである(ベスパはラリー(仕向け地による)やスモールボディ等の一部のモデルにしかウインカーはついていないのだ。)。そしてついでにULMAバンパー(リプロ)とULMAホイールキャップ(本物)、メタルプラストのシェルミラー(リプロ)を取り付けて完成したのだった。(ULMAやメタルプラストは当時の代表的なオプションパーツメーカーです)
もちろんエンジンは完全オーバーホールされているので新車同様の乗り心地。スプリントベローチェやランブレッタと違い、このモデルはタイヤが8インチのためにブレーキが非常に効かない。ブレーキシューをドラムにすべて当たるように調節したり、シューにスリットを入れたりするのだが、とてもブレーキだけでは急ブレーキはできない。エンジンブレーキを併用しなければすぐにロックしてしまうのである。前輪に至っては自転車同様である。しかしこのベスパはとてもかわいく、シルバーのカラーも何だか近未来的なイメージで大満足なのだった。
(ぴっかぴかの150STD。なんだか近未来的なイメージ。タイヤは8インチなのでブレーキ効きません)

(あまりに綺麗なのでポストカードにしてみました)
2008年10月10日
ホンダC70購入
数年前からタイでクラシックブームである。クラシックカーの雑誌も各種発売され(もちろんタイ語オンリー)、情報の少なかった旧車が誰でも手軽に手に入れられて、カスタムできる時代が到来したのである。バンコク某所にも旧車市が毎週土曜日に開催され(以前は中華街で細々とやっていたのだが)、どんどん盛り上がっていくのである。そんな中でもっとも手軽に旧車が味わえる単車がある。そう、カブである。タイでは昔からカブが日本から輸入されたり、現地生産を行い、庶民の足となっていた背景があるので、簡単に入手可能で修理がどこの店でもできる利点がある。そしてここ近年のクラシックブームによるリプロパーツの出現で、今まで貧乏人の乗り物が、若者にとって手軽にクラシック気分やカスタムを味わえる単車となっているのである。
旧車市で超手軽に、しかも安く部品が手に入る事を知った僕は、このカブを購入することを決意したのであった。ベスパとランブレッタを所有していたので、これは彼女用ということで購入に踏み切ったのである。元々日本でこのC70よりももっと古い初期型のC105に乗っていた僕は、やはり初期型に憧れるのだが、僕が乗るわけじゃないのでより乗りやすいC70になったのである。それにしてもカブと聞くと、C105で車につっこんで大破した思い出が苦々しく思い出される。
聞き込み調査とインターネットの情報から、レストアしたC70の値段が25000~18000B程度という事が判明したので、まずは店探しである。いきつけのベスパ屋でもC70を扱っているのだが、値段が高い。結局インターネット上でオーダーで作りますというのを見つけたので、まずはそいつの家を訪ねることにした。そこは普通の民家で、趣味というか小遣い稼ぎにC70のレストアを行っているらしい。ほんとは田舎からボロカブを5000B程度で仕入れてきて、バラバラにしてからエンジンは近所のバイク屋、塗装も近所の塗装屋でやったものを、リプロパーツで組んでおしまいというカラクリなのだが。
もちろんオーダーなので、色・パーツすべてオーダー可能なのである。登録付きのレストア車両に希望通りのカスタムパーツで18000B也。その時は安いとこを見つけたと喜んでいたのである。それが失敗だったと気づくのはしばらく先なのだが。
注文から1ヶ月後にそのC70はやってきた。意外としっかり仕上がっていたので満足していた。しかしキャブまでリプロのB級品が取り付けられていたこともあり、調子は最悪。スピードも50キロしかでない。しかも始動性最悪。今回も掴まされたのである。しかも無理矢理やりたい放題に組んだホイールのリム。これが超サビ安く、雨の日になんて乗れやしない。という訳で僕の所有欲を全く満たしてくれないので、このカブは一ヶ月も我が家にはおらず、すぐに売られていったのである。買った値段と同じ値段で。サヨウナラ~。
C70を購入をお考えの人は、必ずキャブ・メーターがオリジナルか確認してから買った方が良いです。見た目だけのリプロ品はやめた方がいいです。粗悪なので錆びるし、見た目も安っぽくなります。メッキ品はほとんどプラスチックにメッキです。ホイールは高い値段だしてもステンレスのものにしましょう。一番いいのはボロのオリジナルC70を安く買ってきて自分で仕上げることですね。

(おまけでつけてくれた日章旗。今から見ると恥ずかしい単車だこと)
旧車市で超手軽に、しかも安く部品が手に入る事を知った僕は、このカブを購入することを決意したのであった。ベスパとランブレッタを所有していたので、これは彼女用ということで購入に踏み切ったのである。元々日本でこのC70よりももっと古い初期型のC105に乗っていた僕は、やはり初期型に憧れるのだが、僕が乗るわけじゃないのでより乗りやすいC70になったのである。それにしてもカブと聞くと、C105で車につっこんで大破した思い出が苦々しく思い出される。
聞き込み調査とインターネットの情報から、レストアしたC70の値段が25000~18000B程度という事が判明したので、まずは店探しである。いきつけのベスパ屋でもC70を扱っているのだが、値段が高い。結局インターネット上でオーダーで作りますというのを見つけたので、まずはそいつの家を訪ねることにした。そこは普通の民家で、趣味というか小遣い稼ぎにC70のレストアを行っているらしい。ほんとは田舎からボロカブを5000B程度で仕入れてきて、バラバラにしてからエンジンは近所のバイク屋、塗装も近所の塗装屋でやったものを、リプロパーツで組んでおしまいというカラクリなのだが。
もちろんオーダーなので、色・パーツすべてオーダー可能なのである。登録付きのレストア車両に希望通りのカスタムパーツで18000B也。その時は安いとこを見つけたと喜んでいたのである。それが失敗だったと気づくのはしばらく先なのだが。
注文から1ヶ月後にそのC70はやってきた。意外としっかり仕上がっていたので満足していた。しかしキャブまでリプロのB級品が取り付けられていたこともあり、調子は最悪。スピードも50キロしかでない。しかも始動性最悪。今回も掴まされたのである。しかも無理矢理やりたい放題に組んだホイールのリム。これが超サビ安く、雨の日になんて乗れやしない。という訳で僕の所有欲を全く満たしてくれないので、このカブは一ヶ月も我が家にはおらず、すぐに売られていったのである。買った値段と同じ値段で。サヨウナラ~。
C70を購入をお考えの人は、必ずキャブ・メーターがオリジナルか確認してから買った方が良いです。見た目だけのリプロ品はやめた方がいいです。粗悪なので錆びるし、見た目も安っぽくなります。メッキ品はほとんどプラスチックにメッキです。ホイールは高い値段だしてもステンレスのものにしましょう。一番いいのはボロのオリジナルC70を安く買ってきて自分で仕上げることですね。
(おまけでつけてくれた日章旗。今から見ると恥ずかしい単車だこと)
2008年10月05日
VESPA スプリントベローチェを素人塗装
どんどん黄ばんでいく僕のスプリントベローチェ。そしてスタンドを跳ね上げる際の衝撃でボディにヒビが入りそこから進行している錆。僕はこのベスパを自らの手でレストアすることを決意したのだった(もちろんエンジン以外)。
とりあえず色。何でもよかったけど、へたくそでも分かりにくい色ということで黒に決定。今までのカスタムの反動から、今回は最大限オリジナルに近づけるコンセプトで開始した。そして当初より気になっていた角目のスプリント仕様(スプリントはヘッドライトが四角で、スプリントベローチェは丸目なのだ)に変更することにした。
スプリントはスプリントベローチェより年代が古く、基本的な構造は同じなのだが、ヘッドライト(ハンドル)の形状、テールランプ、サイドのモール、そしてエンジンの内容(スプリントは2ポートでベローチャは3ポートなのでこっちの方が早い)等が異なっている。もっと細かく言うと、スプリントでも前期型と後期型があるのだが、今回は前期型にすることにしたのだった。
パーツリストを見ながら、どんどんバラバラに分解して行く。分解するのは意外と簡単で、基本的な工具とジャッキとドリルがあれば僕みたいな素人でも簡単に分解できる。ただ、フロアーのリベットを外すのに相当苦戦し、これだけで3時間もかかってしまった。
分解したパーツ(ボディ、ハンドル、フロントフォーク、ホイールなど)に剥離剤をお好み焼きにソースを塗る要領でペタペタと塗ってゆく(剥離剤はその辺の金物屋で簡単に手に入ります)。そしてポコポコと浮いてきた塗装をワイヤーブラシでゴシゴシと剥がしてゆく。しかし剥離剤は超強烈なのでほんの少しでも肌に触れると強烈な痛みが襲ってきてかなり危険である。しかも強烈すぎるためか、塗装だけでなくパテまでボロボロとはがれていくのである。塗装の剥離が終了して出来上がった裸になったボディはデコボコで、いたるところが溶接された跡でいっぱいだった。こんなに正体はひどかったのね。。。
それにパテをもっていくのだが、これが難しい。すぐに乾燥するし、なかなか削れない上にまっ平らにならない。数日を掛けてパテ盛りと研磨を繰り返すのだが、いっこうにきれいにならない。もうその頃にはどうでも良くなってきていたので、その上から黒スプレーで塗装。やっぱり下地がデコボコだと、仕上りもデコボコである。しかし早くこの泥沼から抜け出したい僕は、その適当な仕上げのまま、部品を組んで完成。のはずが、配線をボディに通したり、前輪の足回りに相当苦戦し、それからさらに1週間かかり、ようやく完成したのだった。組むにも順番があり、それを理解していなかったために、何度も2度手間、3度手間を繰り返し、そんなベスパを破壊したい衝動にかられながらも一応スプリントが完成したのである。
結局、剥離剤、パテ、サンドペーター、スプレー等々を合計すると、店で塗装するのと大差なくなっていたのである。あ~大失敗。
尚、部品に関してはすべてタイの部品屋で安く手に入ります。ただハンドル、ライトとメーターは値段が高く、タイ国内でもどんどん数量が少なくなっているので、欲しい人は早めに入手した方が良いです。ちなみにハンドルだけで2500B、SIEMのオリジナルのヘッドライトが2500B(新品のデッドストックで。中古だと1000~1500B)、扇形のオリジナルメーターで3000B~5000Bです。もちろんリプロは激安です。

(あまりの仕上げの汚さに、写真を撮ったのはたった2枚しかも携帯で)

(表面がデコボコ+ツヤ有と無が同居してます)
とりあえず色。何でもよかったけど、へたくそでも分かりにくい色ということで黒に決定。今までのカスタムの反動から、今回は最大限オリジナルに近づけるコンセプトで開始した。そして当初より気になっていた角目のスプリント仕様(スプリントはヘッドライトが四角で、スプリントベローチェは丸目なのだ)に変更することにした。
スプリントはスプリントベローチェより年代が古く、基本的な構造は同じなのだが、ヘッドライト(ハンドル)の形状、テールランプ、サイドのモール、そしてエンジンの内容(スプリントは2ポートでベローチャは3ポートなのでこっちの方が早い)等が異なっている。もっと細かく言うと、スプリントでも前期型と後期型があるのだが、今回は前期型にすることにしたのだった。
パーツリストを見ながら、どんどんバラバラに分解して行く。分解するのは意外と簡単で、基本的な工具とジャッキとドリルがあれば僕みたいな素人でも簡単に分解できる。ただ、フロアーのリベットを外すのに相当苦戦し、これだけで3時間もかかってしまった。
分解したパーツ(ボディ、ハンドル、フロントフォーク、ホイールなど)に剥離剤をお好み焼きにソースを塗る要領でペタペタと塗ってゆく(剥離剤はその辺の金物屋で簡単に手に入ります)。そしてポコポコと浮いてきた塗装をワイヤーブラシでゴシゴシと剥がしてゆく。しかし剥離剤は超強烈なのでほんの少しでも肌に触れると強烈な痛みが襲ってきてかなり危険である。しかも強烈すぎるためか、塗装だけでなくパテまでボロボロとはがれていくのである。塗装の剥離が終了して出来上がった裸になったボディはデコボコで、いたるところが溶接された跡でいっぱいだった。こんなに正体はひどかったのね。。。
それにパテをもっていくのだが、これが難しい。すぐに乾燥するし、なかなか削れない上にまっ平らにならない。数日を掛けてパテ盛りと研磨を繰り返すのだが、いっこうにきれいにならない。もうその頃にはどうでも良くなってきていたので、その上から黒スプレーで塗装。やっぱり下地がデコボコだと、仕上りもデコボコである。しかし早くこの泥沼から抜け出したい僕は、その適当な仕上げのまま、部品を組んで完成。のはずが、配線をボディに通したり、前輪の足回りに相当苦戦し、それからさらに1週間かかり、ようやく完成したのだった。組むにも順番があり、それを理解していなかったために、何度も2度手間、3度手間を繰り返し、そんなベスパを破壊したい衝動にかられながらも一応スプリントが完成したのである。
結局、剥離剤、パテ、サンドペーター、スプレー等々を合計すると、店で塗装するのと大差なくなっていたのである。あ~大失敗。
尚、部品に関してはすべてタイの部品屋で安く手に入ります。ただハンドル、ライトとメーターは値段が高く、タイ国内でもどんどん数量が少なくなっているので、欲しい人は早めに入手した方が良いです。ちなみにハンドルだけで2500B、SIEMのオリジナルのヘッドライトが2500B(新品のデッドストックで。中古だと1000~1500B)、扇形のオリジナルメーターで3000B~5000Bです。もちろんリプロは激安です。
(あまりの仕上げの汚さに、写真を撮ったのはたった2枚しかも携帯で)
(表面がデコボコ+ツヤ有と無が同居してます)
2008年10月04日
ワーゲンミーティングその2
いきつけのワーゲン屋BPガレージ主催でタイらしくタムブン(お寺に行ってお布施をしたりすることらしい)を行うこととなった。メンバーはいつものBPガレージチームで、ラチャブリーにある超貧乏寺にタムブンをするらしい。早朝に店を出発するのだが、やはりタイなので出発時刻からパラパラと集まり、出発は1時間後だった。目的の寺までは抜きつ抜かれつのデットヒートなので、ゆっくりみんなでドライブと思っていたので面食らう。どうにもみなさん普通の車に劣等感を感じているらしく、やたらと他の日本車とかより早く走りたい様子。一台くらいぶっ壊れるかと期待していたのだが、仏のご加護なのだろう、無事にお寺に到着した。
お寺は噂通り、超貧乏寺なので廃屋のようなお寺にピカピカの仏像があるだけで、あとは坊さんが数名。お経を聞いた後、みんなで持ち寄ったお布施をお布施封筒に入れてタムブン終了。屋根の修理代くらいにはなっただろうか。街の坊さんと森の坊さん。やっぱりより精神的なものを求める人は森なのだろうか。やっぱり修行する坊さんは山奥でなきゃ。と勝手に思う僕だった。
その後はインチキ動物園によったり、岩山で記念撮影をして帰宅である。帰りにラチャブリー名物のこうもりの大群に遭遇し、その圧倒的な数に文字通り圧倒されて、しばらくポカーンと上空を仰ぎ見るのだった。

(やんちゃなキアン兄。チャイルドプレイのペイントに錆び錆び屋根。タイでは有名な一台)

(僕の車以外はやっぱり原色系。アメージングタイランド)

(帰り道、こうもりの大群に遭遇。数十分こうもりの列は消えないのだった。)
そして次回のワーゲンの旅は舞台をカオヤイに移すことになる。この小旅行で僕のビートルのエンジンからオイルを撒き散らすことになるとは露知らず。
仲良しの、ワーゲンバスで39Bバーツステーキ屋をやってるディットさんの誘いで、カオヤイにキャンプをすることになった。やっぱりタイの冬はキャンプなのである。今回はディット一家とメーオ一家との小旅行だった。出発は3台のワーゲンだったのだが、出発早々メーオさんのビートルのサスとスピンドルを固定している部分がへし折れ、ついでにフェンダーをへし割ってしまったので別の車で再出発なのだった。不吉な出発なのだった。あ~この時に気づけばよかった。この旅が不吉なことを。。
3時間程度でカオヤイ麓に到着し、ぐんぐん山道を駆け登る。1600ccなのに1300cc用のキャブレターがくっついてる僕の車(元々は1300ccなのに、無理やりシリンダーだけ1600ccなのだ)にはやはりカオヤイの道は厳しい。エンジンをうならせながら登っていくのだが、様子がいつもと違う。エンジンがやたらと「ウォーン」と悲鳴を上げているようで、どうにもおかしい。目的のコテージに着いてエンジンルームを見てびっくり仰天。どこからともなく溢れ出ているオイル。エンジンケースに亀裂が入っているのだった。40年前の1300ccエンジンに1600ccのシリンダーをくっつけていたバチが当たったのである。もちろんエンジン分解→エンジンケース総交換なのだった。これにより僕はコレクションのカメラを売りに出すはめになったのである。あ~さよならNikon F2とNEW FM2。。タイ人の役に立っておくれ。
帰りの道はオイルを足し足し、行きの倍の時間を掛けての帰宅なのだった。そしてしばらく僕のビートルは長期入院となり、その後にメッキでキラキラ美人エンジンとなり復活を果たすのである。

(突然壁のように立ちはだかるカオヤイの山々。ビートルにはキツイ登り坂が続く)

(バスの上で変身しそうなタイ人。夕方になるともう寒い)

(一軒まるごと貸しきったコテージ。にもかかわらずやっぱりテントを張る人たち)

(夜はステーキ屋の店主が自慢の39Bバーツステーキを振舞うのだ。久しぶりに食べたいなぁ)

(エンジンケース死亡後に見事な復活を果たしたエンジン。ツインキャブは後に取り付けました)
お寺は噂通り、超貧乏寺なので廃屋のようなお寺にピカピカの仏像があるだけで、あとは坊さんが数名。お経を聞いた後、みんなで持ち寄ったお布施をお布施封筒に入れてタムブン終了。屋根の修理代くらいにはなっただろうか。街の坊さんと森の坊さん。やっぱりより精神的なものを求める人は森なのだろうか。やっぱり修行する坊さんは山奥でなきゃ。と勝手に思う僕だった。
その後はインチキ動物園によったり、岩山で記念撮影をして帰宅である。帰りにラチャブリー名物のこうもりの大群に遭遇し、その圧倒的な数に文字通り圧倒されて、しばらくポカーンと上空を仰ぎ見るのだった。
(やんちゃなキアン兄。チャイルドプレイのペイントに錆び錆び屋根。タイでは有名な一台)
(僕の車以外はやっぱり原色系。アメージングタイランド)
(帰り道、こうもりの大群に遭遇。数十分こうもりの列は消えないのだった。)
そして次回のワーゲンの旅は舞台をカオヤイに移すことになる。この小旅行で僕のビートルのエンジンからオイルを撒き散らすことになるとは露知らず。
仲良しの、ワーゲンバスで39Bバーツステーキ屋をやってるディットさんの誘いで、カオヤイにキャンプをすることになった。やっぱりタイの冬はキャンプなのである。今回はディット一家とメーオ一家との小旅行だった。出発は3台のワーゲンだったのだが、出発早々メーオさんのビートルのサスとスピンドルを固定している部分がへし折れ、ついでにフェンダーをへし割ってしまったので別の車で再出発なのだった。不吉な出発なのだった。あ~この時に気づけばよかった。この旅が不吉なことを。。
3時間程度でカオヤイ麓に到着し、ぐんぐん山道を駆け登る。1600ccなのに1300cc用のキャブレターがくっついてる僕の車(元々は1300ccなのに、無理やりシリンダーだけ1600ccなのだ)にはやはりカオヤイの道は厳しい。エンジンをうならせながら登っていくのだが、様子がいつもと違う。エンジンがやたらと「ウォーン」と悲鳴を上げているようで、どうにもおかしい。目的のコテージに着いてエンジンルームを見てびっくり仰天。どこからともなく溢れ出ているオイル。エンジンケースに亀裂が入っているのだった。40年前の1300ccエンジンに1600ccのシリンダーをくっつけていたバチが当たったのである。もちろんエンジン分解→エンジンケース総交換なのだった。これにより僕はコレクションのカメラを売りに出すはめになったのである。あ~さよならNikon F2とNEW FM2。。タイ人の役に立っておくれ。
帰りの道はオイルを足し足し、行きの倍の時間を掛けての帰宅なのだった。そしてしばらく僕のビートルは長期入院となり、その後にメッキでキラキラ美人エンジンとなり復活を果たすのである。

(突然壁のように立ちはだかるカオヤイの山々。ビートルにはキツイ登り坂が続く)

(バスの上で変身しそうなタイ人。夕方になるともう寒い)
(一軒まるごと貸しきったコテージ。にもかかわらずやっぱりテントを張る人たち)

(夜はステーキ屋の店主が自慢の39Bバーツステーキを振舞うのだ。久しぶりに食べたいなぁ)

(エンジンケース死亡後に見事な復活を果たしたエンジン。ツインキャブは後に取り付けました)
2008年10月01日
初のワーゲンミーティングに参加
行きつけのワーゲン修理屋BPガレージの誘いでセントラルでの旧車展に参加することになった。とは言ってもセントラル内で展示される訳ではなく、セントラルの玄関前に車をとめて旧車展を盛り上げようという趣だった。セントラルに向かう途中、目的を同じくするホンダ軍団(単車)と遭遇し、渋滞を巻き起こしながらドライブを楽しんだ。
BPガレージのワーゲン軍団は、ほとんどの車がボロもしくは何とも形容しがたいカスタムを施しており、かっこいいかどうかは甚だ疑わしい。1台ドラッグレースマシンのようなキャルルック(カリフォルニアで主流のドラッグレースからインスパイアされたストリートマシン)がいるのだが、2000ccエンジンにWEBER48、おまけにセンターラインホイールで武装しており半端じゃなく早い。しかし毎回修理に行くたびに先客として修理されている超問題児マシーンである。この日は運良くまともに走っていた。やっぱり常夏のタイで空冷チューンマシーンは厳しいのだろう。
結局夕方までただ車をとめてダベっているだけだったのだが、やはりタイなので車のイベント=コヨーテダンス(水着オネーチャンのセクシーダンス)らしく、イベント車が登場し、コンテナ部分が急上昇して、煙とともにオネーチャン登場!年寄り子供が大勢いるにも関わらず、チャカチャカする音楽の爆音とともにクネクネと腰を振りながらダンスダンスダンス!結局何だかよく分かんないイベントだった。

(ホンダ軍団もタイでは多いのだ。超渋滞を巻き起こすのだ)

(右が噂のドラッグマシーン。ゴキブリじゃないよ)

(CHILI99って一体?チリが好きなのかな。さすがタイ)

(ホンダに混じっていろんな旧車が登場。全部欲しい!)
その後、ワーゲンイベントが待ち遠しくムズムズしていた僕に、次なるミッションが下った。今度はバンコクはずれの田舎っぺグループだけでなく、バンコクのワーゲンチームもいろいろ参加するイベントがラチャダー通りの新規オープンのバーで開催されるのであった。しかも参加料は無料で食べ放題飲み放題という。これはもう行くっきゃない。約1時間をかけて渋滞の中辿り着いたのだが、広い駐車場にはワーゲンの大群が群がっていた。今まで見てきたワーゲンとは全く違い、都会の雰囲気ムンムンのオリジナルに忠実にレストアされたスプリット(50年代の分割型のリア窓のモデル)やオーバル(50年代の卵型のリア窓のモデル)、希少なアクセサリーパーツを満載したビートルに超カスタムされたアーリーバス(前期型のバス)などなど。まったく車をカスタムする金のなかった僕には喉から手が出てきて盗んじゃいたい程のうらやましいモデルやパーツ達。何だか急に自分の車が超普通に感じられてしまうから恐ろしい。何だかカルチャーショックを受けてしまったのである。
イベント自体は、各チームの紹介や、ゲームなどが行われるだけで、後は勝手に飲み食いして帰って頂戴というスタイルだった。しかしこの大人数をただで飲み食いさせる理由って一体。何だか謎が深まるイベントだったのである。

(プライバシー保護のためナンバーはうやむやにしてます。アシカラズ)

(中には何を血迷ったのか、オーディオに走る者も。尚左にうっすら写ってるのは幽霊です)
BPガレージのワーゲン軍団は、ほとんどの車がボロもしくは何とも形容しがたいカスタムを施しており、かっこいいかどうかは甚だ疑わしい。1台ドラッグレースマシンのようなキャルルック(カリフォルニアで主流のドラッグレースからインスパイアされたストリートマシン)がいるのだが、2000ccエンジンにWEBER48、おまけにセンターラインホイールで武装しており半端じゃなく早い。しかし毎回修理に行くたびに先客として修理されている超問題児マシーンである。この日は運良くまともに走っていた。やっぱり常夏のタイで空冷チューンマシーンは厳しいのだろう。
結局夕方までただ車をとめてダベっているだけだったのだが、やはりタイなので車のイベント=コヨーテダンス(水着オネーチャンのセクシーダンス)らしく、イベント車が登場し、コンテナ部分が急上昇して、煙とともにオネーチャン登場!年寄り子供が大勢いるにも関わらず、チャカチャカする音楽の爆音とともにクネクネと腰を振りながらダンスダンスダンス!結局何だかよく分かんないイベントだった。
(ホンダ軍団もタイでは多いのだ。超渋滞を巻き起こすのだ)
(右が噂のドラッグマシーン。ゴキブリじゃないよ)
(CHILI99って一体?チリが好きなのかな。さすがタイ)
(ホンダに混じっていろんな旧車が登場。全部欲しい!)
その後、ワーゲンイベントが待ち遠しくムズムズしていた僕に、次なるミッションが下った。今度はバンコクはずれの田舎っぺグループだけでなく、バンコクのワーゲンチームもいろいろ参加するイベントがラチャダー通りの新規オープンのバーで開催されるのであった。しかも参加料は無料で食べ放題飲み放題という。これはもう行くっきゃない。約1時間をかけて渋滞の中辿り着いたのだが、広い駐車場にはワーゲンの大群が群がっていた。今まで見てきたワーゲンとは全く違い、都会の雰囲気ムンムンのオリジナルに忠実にレストアされたスプリット(50年代の分割型のリア窓のモデル)やオーバル(50年代の卵型のリア窓のモデル)、希少なアクセサリーパーツを満載したビートルに超カスタムされたアーリーバス(前期型のバス)などなど。まったく車をカスタムする金のなかった僕には喉から手が出てきて盗んじゃいたい程のうらやましいモデルやパーツ達。何だか急に自分の車が超普通に感じられてしまうから恐ろしい。何だかカルチャーショックを受けてしまったのである。
イベント自体は、各チームの紹介や、ゲームなどが行われるだけで、後は勝手に飲み食いして帰って頂戴というスタイルだった。しかしこの大人数をただで飲み食いさせる理由って一体。何だか謎が深まるイベントだったのである。
(プライバシー保護のためナンバーはうやむやにしてます。アシカラズ)
(中には何を血迷ったのか、オーディオに走る者も。尚左にうっすら写ってるのは幽霊です)
2008年09月29日
ビートルトラブル履歴
ビートルを購入して間もないころ、発行初刊から購入しているThailand CLASSICというタイの旧車専門の雑誌で、ビートルの修理屋の特集記事があった。よく見てみると、偶然にも最近近所に引っ越したばかりのようだった。その店の名前はBPガレージと言い、小太りの兄ちゃん(今は大太り)とその嫁、そしてその弟子が営んでいるこじんまりとした店だった。意外とタイのワーゲン界では知られた存在らしい。この店はそれ以来イサーンに引っ越した今でも僕のビートルの主治医となるのであるが、当初は勝手に部品を交換しちゃうんじゃないかとか、ぼったくるんじゃないかとか不安で一杯だった。何せ僕自身全く知識がなかったのである(購入当初はバックの仕方や各スイッチやレバーの意味さえさっぱり分からなかったくらいである)
本当は一番最初に行った店があったのだが、ここではブレーキ調整とか点火の調整とか一切部品を交換せず調整してもらっただけ+オイル交換だけなのにえらいぼったくられたので、それ以来顔を出していない。後に知ったのだが、ここはタイ人にさえもぼったくる超極悪店なのだった。ちなみにガレージウワンといいます。今思い出しても腹が立つぅ。

(ガレージウワンでおしっこ中のビートル。)

(ボロボロでごちゃごちゃしたエンジンルーム。油漏れ放題。見て見ぬ振りなのだ)
今後ビートルをタイで購入予定の将来有望な方々への参考までに今までの故障履歴を紹介します。
購入時の状態は下記の通り。外見は新車なのに!
①まず初めて現車を見に行った時に、いきなりエンジンがかからなかった。(普通この地点で買わないよね~)
②まっすぐ走らせるには、ハンドルを少し右に切らないとだめ(ハンドルがまっすぐじゃない!)
③少しの路面の段差でやたらガタガタ振動を感じる
④なんだか常にエンジンルームがオイルっぽい
⑤ブレーキを踏むと右に曲がる
⑥水平な場所なのに激しく右に傾いている
⑦1600ccのくせに妙に遅い
⑧やたらハンドルが軽い
⑨一度エンストすると30分くらいはエンジンがかからない(もちろん押し掛けあるのみ)
はっきり言って完全な未整備状態。ただ走るだけの状態なのだった。しかしビートル経験がない僕にとって「旧車ってこんなもんだろう」としか思ってなかったのである(実は大間違い)。その後ちまちまと気になる部分を調整・交換してもらい普通に走るようになったのだが、それと入れ替わりに40年間溜まりに溜まったウミが徐々に姿を現すのであった。
その故障履歴は以下の通り。いい加減にしないと死んじゃうよぅ。
①ブレーキシュー断裂。これはビビッた。運転中いきない「バキッ、ガガガガガ」だもん。
②ブレーキシュー交換の際に、「あれっ、ブレーキオイルが漏れてるよ」という言葉に意識が朦朧と。。そしてブレーキのゴム関係を総交換。
③クラッチペダル断裂。これにもビビッた。運転中いきない「ピキッ、バキッ」だもん。普通厚み1cmの鉄が折れる??
④クラッチレバー断裂(クラッチワイヤーとクラッチを繋げる部品)。運転中いきない「ビキッ」。これ以来クラッチなしでも運転できるの術を体得。
⑤ワイパーモーターから煙が!もちろん交換
⑥アクセルを踏んでないのに勝手に回転数が上がっていくぅ!キャブレターの稼動部が固着してました
⑦クラッチが滑りまくる。交換で~す
⑧マフラーに穴が開いてる!やたらうるさいと思った。もちろん交換
⑨いっぱいまでハンドルを切るとクラクションが!今だにたまに鳴ります。原因不明
⑩エアコン故障!コンプレッサーが原因と思い交換するも、実はオイルクーラーだったので出費×2倍
⑪これにはまいった!ラマ9世橋(チャオプラヤ川を渡す高速の橋)の一番右車線の登りのちょうど中間地点でガソリンポンプ故障により走行不可。大渋滞を引き起こし、後続の車のおっさんたちに助けられ何とか左車線に移動。その後レッカーで運ばれ即入院。ポンプの寿命なのだった。それ以来電磁ポンプに交換して絶好調!のはずがまたしても死亡。同じ失敗を繰り返す。
⑫カオヤイでキャンプをした帰り、エンジンから突然大量のオイルが!エンジンケース亀裂発生で、総交換を余儀なくされる。そしてこの際ということで気分一新、有り金はたいてメッキ満載のピカピカエンジンにしたのだった。
⑬その後クランクプーリー裏から微妙にオイルが漏れるのが気に入らなく、サンドシールプーリーと呼ばれるものに交換し、オイル漏れがなくなったのも束の間、エンジンケースとの愛称が悪く、シールがはずれてエンジンルームオイル地獄+遠出していたために300km牽引地獄+せっかく買ったサンドシールプーリーも死亡。
結局足回り、ブレーキ関係、電気系統、エンジン分解修理、エアコン交換、クラッチ交換等ほとんど修理したことになる。やっぱりこの車って掴まされてるのかなぁ。けど楽しいからいいや。

(男前になったエンジン。中身はそのままんだけどとりあえずかっこだけ!)
本当は一番最初に行った店があったのだが、ここではブレーキ調整とか点火の調整とか一切部品を交換せず調整してもらっただけ+オイル交換だけなのにえらいぼったくられたので、それ以来顔を出していない。後に知ったのだが、ここはタイ人にさえもぼったくる超極悪店なのだった。ちなみにガレージウワンといいます。今思い出しても腹が立つぅ。
(ガレージウワンでおしっこ中のビートル。)
(ボロボロでごちゃごちゃしたエンジンルーム。油漏れ放題。見て見ぬ振りなのだ)
今後ビートルをタイで購入予定の将来有望な方々への参考までに今までの故障履歴を紹介します。
購入時の状態は下記の通り。外見は新車なのに!
①まず初めて現車を見に行った時に、いきなりエンジンがかからなかった。(普通この地点で買わないよね~)
②まっすぐ走らせるには、ハンドルを少し右に切らないとだめ(ハンドルがまっすぐじゃない!)
③少しの路面の段差でやたらガタガタ振動を感じる
④なんだか常にエンジンルームがオイルっぽい
⑤ブレーキを踏むと右に曲がる
⑥水平な場所なのに激しく右に傾いている
⑦1600ccのくせに妙に遅い
⑧やたらハンドルが軽い
⑨一度エンストすると30分くらいはエンジンがかからない(もちろん押し掛けあるのみ)
はっきり言って完全な未整備状態。ただ走るだけの状態なのだった。しかしビートル経験がない僕にとって「旧車ってこんなもんだろう」としか思ってなかったのである(実は大間違い)。その後ちまちまと気になる部分を調整・交換してもらい普通に走るようになったのだが、それと入れ替わりに40年間溜まりに溜まったウミが徐々に姿を現すのであった。
その故障履歴は以下の通り。いい加減にしないと死んじゃうよぅ。
①ブレーキシュー断裂。これはビビッた。運転中いきない「バキッ、ガガガガガ」だもん。
②ブレーキシュー交換の際に、「あれっ、ブレーキオイルが漏れてるよ」という言葉に意識が朦朧と。。そしてブレーキのゴム関係を総交換。
③クラッチペダル断裂。これにもビビッた。運転中いきない「ピキッ、バキッ」だもん。普通厚み1cmの鉄が折れる??
④クラッチレバー断裂(クラッチワイヤーとクラッチを繋げる部品)。運転中いきない「ビキッ」。これ以来クラッチなしでも運転できるの術を体得。
⑤ワイパーモーターから煙が!もちろん交換
⑥アクセルを踏んでないのに勝手に回転数が上がっていくぅ!キャブレターの稼動部が固着してました
⑦クラッチが滑りまくる。交換で~す
⑧マフラーに穴が開いてる!やたらうるさいと思った。もちろん交換
⑨いっぱいまでハンドルを切るとクラクションが!今だにたまに鳴ります。原因不明
⑩エアコン故障!コンプレッサーが原因と思い交換するも、実はオイルクーラーだったので出費×2倍
⑪これにはまいった!ラマ9世橋(チャオプラヤ川を渡す高速の橋)の一番右車線の登りのちょうど中間地点でガソリンポンプ故障により走行不可。大渋滞を引き起こし、後続の車のおっさんたちに助けられ何とか左車線に移動。その後レッカーで運ばれ即入院。ポンプの寿命なのだった。それ以来電磁ポンプに交換して絶好調!のはずがまたしても死亡。同じ失敗を繰り返す。
⑫カオヤイでキャンプをした帰り、エンジンから突然大量のオイルが!エンジンケース亀裂発生で、総交換を余儀なくされる。そしてこの際ということで気分一新、有り金はたいてメッキ満載のピカピカエンジンにしたのだった。
⑬その後クランクプーリー裏から微妙にオイルが漏れるのが気に入らなく、サンドシールプーリーと呼ばれるものに交換し、オイル漏れがなくなったのも束の間、エンジンケースとの愛称が悪く、シールがはずれてエンジンルームオイル地獄+遠出していたために300km牽引地獄+せっかく買ったサンドシールプーリーも死亡。
結局足回り、ブレーキ関係、電気系統、エンジン分解修理、エアコン交換、クラッチ交換等ほとんど修理したことになる。やっぱりこの車って掴まされてるのかなぁ。けど楽しいからいいや。
(男前になったエンジン。中身はそのままんだけどとりあえずかっこだけ!)
2008年09月28日
ビートル66年式購入
スクーターだけで十分だぜ!と思ってはいたけど、やはり車が欲しい。バンコクの最西端に引っ越した僕にとって、スクーターだけではもはや生活に支障をきたしていた。そして僕は彼女の「ホンダのJAZZが欲しい」という言葉を一蹴し、またしても大して知識もないのに、得意のインターネットでビートルを見つけ出したのである。
またしてもビートルを知らない人々のために説明しよう。ビートルとはあのヒットラーがポルシェ博士(もちろんポルシェの生みの親)に作らせた大衆車なのである。世界中で販売され、世界中を席巻したスーパーカーなのである。しかもベスパ同様にほとんど初期からスタイルを変えず、毎年のように細かなモデルチェンジを繰り返す、僕好みの車なのである。そのため多数のアクセサリー・カスタムパーツ、そして幅広い互換性のために現在でも世界中でビートルファンが存在するのである。尚、タイではロッタオ(亀の車)と呼ばれていて、貧乏人の車の象徴なのである。しかしここ数年のクラシックブームにより、若者はこのビートルをカスタムして乗り回しているのである。僕もその一員なのである。
なぜビートルなのか。これにはいろいろと訳があるのだが、簡単に言うと安くて、かわいくて、部品の入手が他の旧車に比べて簡単そうという理由からだけだった(本当はミニも候補だったが、何せ高いのである)。修理や部品は買ってから探せばいいだろうと、特に深く考えていなかったのである。今から考えると恐ろしく無謀である。その時の僕のビートルに関する知識と言えば、66年式までは6Vでクラシック風、67年以降は少し現代風という程度で、部品がどうとか、エンジンがどうとかさっぱり知らなかったのである。
偶然見つけたこの車両は、6V最終モデルの1966年式で、今から考えると超ラッキーな掘り出し物だった。外装は塗りたてで内装は張替え済みで双方共に理想通りの色。ホイールもエンピスタイルの5スポークの新品、これも僕の好み通り。そして再メッキしたてのバンパー。部品に関しても若干の欠品はあったが、オリジナルをキープしており、タイでは中途半端にダサくいじっているビートルが多い中、これだけ僕のイメージ通りの車両に出会えるとは思いもよらなかった。しかし購入後に気づいたのだが、このビートル、見た目は新車同様だが、エンジン、足回り、電気系統全てボロボロ。タイお得意の壊れるまで修理しないスタイルのため、購入から2年間、毎月のように各箇所が故障し、ほぼ全て修理することになるのである。そしてその都度僕は知恵をつけていくのである。今から考えるとこの故障の連続がなければ、タイのワーゲンシーンや部品屋、ミーティング等に出会えてなかっただろう。そしてそのせいで僕の日本からの貯金は底をついてしまったのである。。
しかしよく考えてみると、この車両って実は、オリジナルのボロビートル(実は何もカスタムしてないだけ)→手に負えない故障の連続→諦める→とりあえず外装と内装をきれいにして売ってしまえ→僕がひっかかった。だったのかもしれない。。ただいろいろワーゲンの事を調べていくに連れ、現在では意外と安かったのかもという結論に達したのである。

(インターネットに売りに出ていた写真。外観は新車、機関は最低。。しかし車高は最高)

(ほぼオリジナルを保った内装。実は結構欠品が。。)
またしてもビートルを知らない人々のために説明しよう。ビートルとはあのヒットラーがポルシェ博士(もちろんポルシェの生みの親)に作らせた大衆車なのである。世界中で販売され、世界中を席巻したスーパーカーなのである。しかもベスパ同様にほとんど初期からスタイルを変えず、毎年のように細かなモデルチェンジを繰り返す、僕好みの車なのである。そのため多数のアクセサリー・カスタムパーツ、そして幅広い互換性のために現在でも世界中でビートルファンが存在するのである。尚、タイではロッタオ(亀の車)と呼ばれていて、貧乏人の車の象徴なのである。しかしここ数年のクラシックブームにより、若者はこのビートルをカスタムして乗り回しているのである。僕もその一員なのである。
なぜビートルなのか。これにはいろいろと訳があるのだが、簡単に言うと安くて、かわいくて、部品の入手が他の旧車に比べて簡単そうという理由からだけだった(本当はミニも候補だったが、何せ高いのである)。修理や部品は買ってから探せばいいだろうと、特に深く考えていなかったのである。今から考えると恐ろしく無謀である。その時の僕のビートルに関する知識と言えば、66年式までは6Vでクラシック風、67年以降は少し現代風という程度で、部品がどうとか、エンジンがどうとかさっぱり知らなかったのである。
偶然見つけたこの車両は、6V最終モデルの1966年式で、今から考えると超ラッキーな掘り出し物だった。外装は塗りたてで内装は張替え済みで双方共に理想通りの色。ホイールもエンピスタイルの5スポークの新品、これも僕の好み通り。そして再メッキしたてのバンパー。部品に関しても若干の欠品はあったが、オリジナルをキープしており、タイでは中途半端にダサくいじっているビートルが多い中、これだけ僕のイメージ通りの車両に出会えるとは思いもよらなかった。しかし購入後に気づいたのだが、このビートル、見た目は新車同様だが、エンジン、足回り、電気系統全てボロボロ。タイお得意の壊れるまで修理しないスタイルのため、購入から2年間、毎月のように各箇所が故障し、ほぼ全て修理することになるのである。そしてその都度僕は知恵をつけていくのである。今から考えるとこの故障の連続がなければ、タイのワーゲンシーンや部品屋、ミーティング等に出会えてなかっただろう。そしてそのせいで僕の日本からの貯金は底をついてしまったのである。。
しかしよく考えてみると、この車両って実は、オリジナルのボロビートル(実は何もカスタムしてないだけ)→手に負えない故障の連続→諦める→とりあえず外装と内装をきれいにして売ってしまえ→僕がひっかかった。だったのかもしれない。。ただいろいろワーゲンの事を調べていくに連れ、現在では意外と安かったのかもという結論に達したのである。

(インターネットに売りに出ていた写真。外観は新車、機関は最低。。しかし車高は最高)

(ほぼオリジナルを保った内装。実は結構欠品が。。)
2008年09月28日
ベスパの購入・メンテナンス・故障・修理について
ベスパの購入・メンテナンス・故障・修理について、今後購入予定の方の参考になればと思い紹介します。(わざわざタイで乗らないかな~。)基本的に修理代は激安です。部品は特殊なモデルでなければ安いです。オイル交換なんて50Bくらいだったと思います。(自分でやるのではっきりと覚えてません)
①まず購入について、基本的にバンコク市内の①ヤオワラート②ブッカロー③ラップラオにベスパ屋が点在してるので、通りががったベスパ乗りを捕まえて聞きましょう。ラーンベッパーユーティーナイ?と言えば地図を書いてくれると思います。ベスパ乗りは優しいのだ。
(注)僕がスプリントベローチェを購入したヤオワラートの店は外国人にふっかけてくるので注意!注意しないと毎回値段が違うし、おやじに値段を聞くと高いので娘さんに値段を聞いた方が安い不思議なシステム。店の名前は何とかヨンとかいう名前です。ソイマンコーンっていう通りにあります。部品はいっぱい売ってます。勝手に部品をコピーして販売もしてます。
②メンテナンスについて、基本的にはベスパに関する本を購入した方が良いです。一番よいのはベスパビバーチェという伝説のベスパ専門雑誌(ただ今だと中古でしか手に入りません。)。そしてそれを編集したメンテナンスの本(新品購入可)もあるのでそれがいいかも(ただしスモールボディがメイン)。後はインターネットで調べればいろいろ出てくると思います。基本的なことはそれに載っているので、あとはパーツリスト(設計図みたいなもの)をネットで調べれば、自分で組み立てる時に役に立つと思います。
メンテ自体は特に難しくなく、1)オイル交換2)プラグ交換3)タイヤ交換ができれば十分だと思います。
(注)ギアオイルの交換は簡単ですが、オイルを入れすぎるとリアの車軸からギアオイルが漏れ出してきますので注意!もちろんリアブレーキはまったく効かなくなるので死の危険性アップです。タイの修理屋決まってめちゃくちゃオイルを入れてくるので要注意!
③故障と修理について、基本的に発生する故障は以下の通りです。
1)ワイヤー切れ→すべての操作(アクセル・ブレーキ・クラッチ・ギアチェンジ)をワイヤーで行っているベスパにとって、避けては通れない故障(本当は故障でなく消耗です)。尚、ワイヤーは1本100円程度です(種類による)。
尚、ワイヤーの交換は簡単です。繋がっている部分や動作する部分を観察すれば何となく分かります。不安な方はパーツリストを調べればどこにどう繋がっているか分かります。面倒な人はお店で交換ですね。ほとんど部品代だけでやってくれます。
尚、各ワイヤーが切れた際の緊急脱出方は以下の通り。
・クラッチワイヤー→止まる前にニュートラルに入れる。スタート時は押しがけの要領でギアをぶち込む。後はクラッチ操作なしでもスピードとギアが合えばギアは入ります。
・アクセルワイヤー→アイドリングを最大限にすれば、とりあえずゆっくり走れます。
・ブレーキワイヤー→前後同時に切れませんので、どっちか生き残っている方でブレーキしてください。
・ギアワイヤー→切れた時のギアのままで走ってください。止まるときはクラッチを握りましょう。
2)パンク→チューブ使用なので当然釘とか踏めばパンクします。まー車輪を片側だけで支えてるので他のバイクより交換は非常に簡単です。タイヤとチューブは安いので気にしない。(タイヤ1000円チューブ300円くらい。パンク修理は100円もしません)。前輪の交換は小学生でもできますが、後輪の交換は車体の重さを支えなければならないのでジャッキが必要です。面倒な人(特にタイ人)は、そのままベスパを横にして交換します。もちろん傷がいく可能性大です。そして当然キャブがオーバーフローするので、その後ひたすらキックしてエンジンを復活させるという儀式が必要です。交換作業自体は13mmのレンチだけで可能です。
3)電球切れ→どっかのライトが切れていると他の電球に電圧が集中して他のも切れるので早く換えましょう。6V車と12V車があるので注意(年式による)
4)エンストする→①キャブの調整か、掃除をしましょう。面倒な人はお店に行きましょう。
②ポイント調整しましょう。フライホイールの穴から調整できます。
5)クラッチが滑る→交換しましょう。交換自体は素人でもできますが、インド製クラッチ板はいちいち金属部分を自分のクラッチユニットに合うように削らないといけないので非常にイライラします。やはり店で交換が一番!
6)エンジンがかからない→その主な原因と対策は以下の通りです。
①エンジンがかからない→スイッチをオンにしましょう。
②ガソリンがない→ガソリンを入れましょう。
③ガソリンはある→ガソリンコックがC(カット)にないですか?
④ガソリンは少しある→ガソリンコックをR(予備タンク)にしましょう。
⑤ガソリン関係は大丈夫→プラグが濡れていませんか?濡れてたらプラグを交換(もしくは乾燥)させましょう。
⑥プラグはOK→プラグの先端をどっか金属部分に接触させてキック。火花が散れば点火系はOK。だめであればどっかの配線が断線、もしくはイグニッションコイルの故障、ポイントの極端なズレ・故障が原因です。諦めましょう。ただ、まれにキルスイッチのスイッチがめりこんだまま戻っていない時があるのでとりあえずそこをチェック。
⑦火花はOK。しかしプラグを交換したがまたプラグが濡れる→ガソリンがエンジン内に大量に流入しているのでガソリンを抜きましょう
方法は1)メインスイッチをオフにする(スイッチがある車両の場合)。ない場合はずっとキルスイッチを押しておく(安全のため)。
2)ガソリンコックをC(カット)にする
3)プラグを外す。安全のためにプラグホールに雑巾を当てておく
4)アクセル全開で、ひたすらキック。動悸息切れがするまで
5)すべて元に戻してキックすれば大丈夫なはず
⑧それでも分からない時は、悲しいかな押して帰りましょう。
7)ギアが滑る(加速する時に勝手にギアが変わったりニュートラルに入ったりする→ギアセレクターの消耗なのでエンジン分解する必要があります。修理代2000B~。普通に乗っていれば数万キロは大丈夫ですが。
基本的には修理が趣味な人以外はお店でやった方がいいです。工賃自体はびっくりするほど安いです。ただ力技が得意なので傷が嫌な人は自分でやりましょう。
基本的にしっかりレストアや修理がされている車両は壊れません。僕のベスパも購入から3年が経ちますが消耗部品の交換だけでエンジン自体はノントラブルです。修理が趣味の人以外はしっかり修理されたベスパをお店で買いましょう。個人売買は騙されるので気をつけましょう。あと、ランブレッタはやめた方がいいです。近くに専門の修理屋がないのであれば。
①まず購入について、基本的にバンコク市内の①ヤオワラート②ブッカロー③ラップラオにベスパ屋が点在してるので、通りががったベスパ乗りを捕まえて聞きましょう。ラーンベッパーユーティーナイ?と言えば地図を書いてくれると思います。ベスパ乗りは優しいのだ。
(注)僕がスプリントベローチェを購入したヤオワラートの店は外国人にふっかけてくるので注意!注意しないと毎回値段が違うし、おやじに値段を聞くと高いので娘さんに値段を聞いた方が安い不思議なシステム。店の名前は何とかヨンとかいう名前です。ソイマンコーンっていう通りにあります。部品はいっぱい売ってます。勝手に部品をコピーして販売もしてます。
②メンテナンスについて、基本的にはベスパに関する本を購入した方が良いです。一番よいのはベスパビバーチェという伝説のベスパ専門雑誌(ただ今だと中古でしか手に入りません。)。そしてそれを編集したメンテナンスの本(新品購入可)もあるのでそれがいいかも(ただしスモールボディがメイン)。後はインターネットで調べればいろいろ出てくると思います。基本的なことはそれに載っているので、あとはパーツリスト(設計図みたいなもの)をネットで調べれば、自分で組み立てる時に役に立つと思います。
メンテ自体は特に難しくなく、1)オイル交換2)プラグ交換3)タイヤ交換ができれば十分だと思います。
(注)ギアオイルの交換は簡単ですが、オイルを入れすぎるとリアの車軸からギアオイルが漏れ出してきますので注意!もちろんリアブレーキはまったく効かなくなるので死の危険性アップです。タイの修理屋決まってめちゃくちゃオイルを入れてくるので要注意!
③故障と修理について、基本的に発生する故障は以下の通りです。
1)ワイヤー切れ→すべての操作(アクセル・ブレーキ・クラッチ・ギアチェンジ)をワイヤーで行っているベスパにとって、避けては通れない故障(本当は故障でなく消耗です)。尚、ワイヤーは1本100円程度です(種類による)。
尚、ワイヤーの交換は簡単です。繋がっている部分や動作する部分を観察すれば何となく分かります。不安な方はパーツリストを調べればどこにどう繋がっているか分かります。面倒な人はお店で交換ですね。ほとんど部品代だけでやってくれます。
尚、各ワイヤーが切れた際の緊急脱出方は以下の通り。
・クラッチワイヤー→止まる前にニュートラルに入れる。スタート時は押しがけの要領でギアをぶち込む。後はクラッチ操作なしでもスピードとギアが合えばギアは入ります。
・アクセルワイヤー→アイドリングを最大限にすれば、とりあえずゆっくり走れます。
・ブレーキワイヤー→前後同時に切れませんので、どっちか生き残っている方でブレーキしてください。
・ギアワイヤー→切れた時のギアのままで走ってください。止まるときはクラッチを握りましょう。
2)パンク→チューブ使用なので当然釘とか踏めばパンクします。まー車輪を片側だけで支えてるので他のバイクより交換は非常に簡単です。タイヤとチューブは安いので気にしない。(タイヤ1000円チューブ300円くらい。パンク修理は100円もしません)。前輪の交換は小学生でもできますが、後輪の交換は車体の重さを支えなければならないのでジャッキが必要です。面倒な人(特にタイ人)は、そのままベスパを横にして交換します。もちろん傷がいく可能性大です。そして当然キャブがオーバーフローするので、その後ひたすらキックしてエンジンを復活させるという儀式が必要です。交換作業自体は13mmのレンチだけで可能です。
3)電球切れ→どっかのライトが切れていると他の電球に電圧が集中して他のも切れるので早く換えましょう。6V車と12V車があるので注意(年式による)
4)エンストする→①キャブの調整か、掃除をしましょう。面倒な人はお店に行きましょう。
②ポイント調整しましょう。フライホイールの穴から調整できます。
5)クラッチが滑る→交換しましょう。交換自体は素人でもできますが、インド製クラッチ板はいちいち金属部分を自分のクラッチユニットに合うように削らないといけないので非常にイライラします。やはり店で交換が一番!
6)エンジンがかからない→その主な原因と対策は以下の通りです。
①エンジンがかからない→スイッチをオンにしましょう。
②ガソリンがない→ガソリンを入れましょう。
③ガソリンはある→ガソリンコックがC(カット)にないですか?
④ガソリンは少しある→ガソリンコックをR(予備タンク)にしましょう。
⑤ガソリン関係は大丈夫→プラグが濡れていませんか?濡れてたらプラグを交換(もしくは乾燥)させましょう。
⑥プラグはOK→プラグの先端をどっか金属部分に接触させてキック。火花が散れば点火系はOK。だめであればどっかの配線が断線、もしくはイグニッションコイルの故障、ポイントの極端なズレ・故障が原因です。諦めましょう。ただ、まれにキルスイッチのスイッチがめりこんだまま戻っていない時があるのでとりあえずそこをチェック。
⑦火花はOK。しかしプラグを交換したがまたプラグが濡れる→ガソリンがエンジン内に大量に流入しているのでガソリンを抜きましょう
方法は1)メインスイッチをオフにする(スイッチがある車両の場合)。ない場合はずっとキルスイッチを押しておく(安全のため)。
2)ガソリンコックをC(カット)にする
3)プラグを外す。安全のためにプラグホールに雑巾を当てておく
4)アクセル全開で、ひたすらキック。動悸息切れがするまで
5)すべて元に戻してキックすれば大丈夫なはず
⑧それでも分からない時は、悲しいかな押して帰りましょう。
7)ギアが滑る(加速する時に勝手にギアが変わったりニュートラルに入ったりする→ギアセレクターの消耗なのでエンジン分解する必要があります。修理代2000B~。普通に乗っていれば数万キロは大丈夫ですが。
基本的には修理が趣味な人以外はお店でやった方がいいです。工賃自体はびっくりするほど安いです。ただ力技が得意なので傷が嫌な人は自分でやりましょう。
基本的にしっかりレストアや修理がされている車両は壊れません。僕のベスパも購入から3年が経ちますが消耗部品の交換だけでエンジン自体はノントラブルです。修理が趣味の人以外はしっかり修理されたベスパをお店で買いましょう。個人売買は騙されるので気をつけましょう。あと、ランブレッタはやめた方がいいです。近くに専門の修理屋がないのであれば。
2008年09月27日
ランブレッタLI-2購入
スプリントベローチェ購入後、少ない給料(遂に就職、現地採用なので給料は高校生のバイト代並なのだ)からちょこちょことカスタムを行っていた。しかし知らないとは罪である。せっかくオリジナルのSIEMのヘッドライト(珍しいので結構高いのだ)がついていたにも関わらず、暗いからと言って安物の明るいヘッドライトに交換してしまい、しかもオリジナルを店に忘れて帰ってしまうという失態を演じたのである。半年して価値に気づいた時にはすでに遅しなのだった。あーその時の僕のバカー。
ある程度完成したある日、僕はタイの旧車専門のウェブサイトで赤と白のランブレッタLi-2を発見した。ランブレッタとはピアジオ社のベスパと肩を並べるイタリアのイノチェンティが誇るスクーターである。ベスパとは構造が違い、こちらは配管メーカーが基であるために、それを活用し鋼管パイプをフレームとしてボディ部品をくっつけたいわゆる現代っぽいスタイルなのだ。しかし外観はベスパと似ており、素人には何がなんだかであろう。
ここだけの話だが、タイにはベスパと同じで、ランブレッタでもイタリア製とインド製があるのである。インド製もあるがこちらはベスパのライセンス生産と違い、部品はすべてイタリアの工場で作り、インドの工場で組み立てるノックダウン生産なのである(Li-2に限るが)。なので実際はインド製なのかイタリア製なのかよく分からない。しかし一部のモデル、今回僕が購入したLi-2等は該当モデルにあたり、外観ではさっぱり見分けがつかないが、車体番号やエンジン番号、そして各部品のAPIという刻印だけでその正体が分かるのである。素人は騙されるので注意が必要なのである。まーわざわざランブレッタをタイで乗る物好きもいないと思うけど。。
僕の少ない資金では到底ちゃんとしたランブレッタは買えないので、その発見した登録無しのボロイタリアンランブレッタを購入するという暴挙に出たのである。もちろん登録がないということはナンバープレートがないのである。ナンバープレートがないという事はポリスに御用なのである。しかし憧れのランブレッタ購入の前にはそんな事は何の意味も持たないのだった。
ランブレッタ。。。僕の中ではモッズ(60年代イギリスで流行していたドレスアップしたスクーターに乗るイカれた若者達)のシンボルであり、日本では100万円とかする超高級スクーターであり(ベスパも同じくらいするが。。)、一生乗ることもないだろうと思っていたスクーターなのである。もうたまらないのである。買うしかないのである。
実車を見てみると、外観はきれいなのだが、エンジンや各動作部はガタガタなのである。やはり値段相応。しかし実物を目の前にしてしまい、完全に舞い上がっていた僕はそのまま購入して乗って帰ってしまったのである。登録がないので、その場で適当に「私はこの人に売ります」といった書面を交わしただけで終わりである。しかもタイ語で。
しかし家にたどり着く前にエンジン停止。偶然近くにあった知り合いのベスパ屋に入院となったのである。やっぱり掴まされた!!後の祭りである。購入後に気づいたのだが、タイには極端にランブレッタの修理してくれる店がない。おそらくまともに修理できるのはタイ国中で5軒もないであろう。しかも部品もほとんどなく、マジで大変なのである。そして修理とついでに欠品している部品をあらゆる手段(ベスパに乗ってるタイ人を捕まえてランブレッタについて尋問する等)を通じて手に入れ、何とか普通に乗れるようになったのである。しかしこのランブレッタはスプリントベローチェと同じ150ccのくせに図体がでかいせいか、なんとも遅い。加速も全然だめ。まー60年代前半のスクーターなので仕方がないといえばそれまでだが。見た目は気に入っていたが、デカイ・オモイ・オソイの三拍子が揃っていたために、しばらくして家のオブジェと化したのである。

(素人には同じに見えるかも)

(ベスパよりボテっとしており、なんか豚っぽいイメージ)
ある程度完成したある日、僕はタイの旧車専門のウェブサイトで赤と白のランブレッタLi-2を発見した。ランブレッタとはピアジオ社のベスパと肩を並べるイタリアのイノチェンティが誇るスクーターである。ベスパとは構造が違い、こちらは配管メーカーが基であるために、それを活用し鋼管パイプをフレームとしてボディ部品をくっつけたいわゆる現代っぽいスタイルなのだ。しかし外観はベスパと似ており、素人には何がなんだかであろう。
ここだけの話だが、タイにはベスパと同じで、ランブレッタでもイタリア製とインド製があるのである。インド製もあるがこちらはベスパのライセンス生産と違い、部品はすべてイタリアの工場で作り、インドの工場で組み立てるノックダウン生産なのである(Li-2に限るが)。なので実際はインド製なのかイタリア製なのかよく分からない。しかし一部のモデル、今回僕が購入したLi-2等は該当モデルにあたり、外観ではさっぱり見分けがつかないが、車体番号やエンジン番号、そして各部品のAPIという刻印だけでその正体が分かるのである。素人は騙されるので注意が必要なのである。まーわざわざランブレッタをタイで乗る物好きもいないと思うけど。。
僕の少ない資金では到底ちゃんとしたランブレッタは買えないので、その発見した登録無しのボロイタリアンランブレッタを購入するという暴挙に出たのである。もちろん登録がないということはナンバープレートがないのである。ナンバープレートがないという事はポリスに御用なのである。しかし憧れのランブレッタ購入の前にはそんな事は何の意味も持たないのだった。
ランブレッタ。。。僕の中ではモッズ(60年代イギリスで流行していたドレスアップしたスクーターに乗るイカれた若者達)のシンボルであり、日本では100万円とかする超高級スクーターであり(ベスパも同じくらいするが。。)、一生乗ることもないだろうと思っていたスクーターなのである。もうたまらないのである。買うしかないのである。
実車を見てみると、外観はきれいなのだが、エンジンや各動作部はガタガタなのである。やはり値段相応。しかし実物を目の前にしてしまい、完全に舞い上がっていた僕はそのまま購入して乗って帰ってしまったのである。登録がないので、その場で適当に「私はこの人に売ります」といった書面を交わしただけで終わりである。しかもタイ語で。
しかし家にたどり着く前にエンジン停止。偶然近くにあった知り合いのベスパ屋に入院となったのである。やっぱり掴まされた!!後の祭りである。購入後に気づいたのだが、タイには極端にランブレッタの修理してくれる店がない。おそらくまともに修理できるのはタイ国中で5軒もないであろう。しかも部品もほとんどなく、マジで大変なのである。そして修理とついでに欠品している部品をあらゆる手段(ベスパに乗ってるタイ人を捕まえてランブレッタについて尋問する等)を通じて手に入れ、何とか普通に乗れるようになったのである。しかしこのランブレッタはスプリントベローチェと同じ150ccのくせに図体がでかいせいか、なんとも遅い。加速も全然だめ。まー60年代前半のスクーターなので仕方がないといえばそれまでだが。見た目は気に入っていたが、デカイ・オモイ・オソイの三拍子が揃っていたために、しばらくして家のオブジェと化したのである。

(素人には同じに見えるかも)

(ベスパよりボテっとしており、なんか豚っぽいイメージ)
2008年09月24日
タイでVESPA購入
はじめてタイで購入したベスパは、150スプリントベローチェというラージボディのベスパだった。高校生で免許をとってからずっとタイに来るまでベスパET3に乗っていたので、基本的にはベスパの事については分かっているつもりだった。しかしワイヤー交換・オイル交換・タイヤ交換しかしたことがなかったので、本格的にベスパをいじるようになったのはタイに来てからだった。
ベスパの事を知らない人々に簡単に説明しよう、ベスパとは第二次大戦前後にイタリアで生まれたスクーターのことである。もともとは船家具工場→戦闘機メーカーのピアジオ社が航空機技術を取り入れたスチール製のモノコックボディ(車体自体がフレームになっている)に片持ちサスでチェーンを使用せずクランクの動きを直接ギアで後輪に伝えるダイレクトドライブ機構の2ストロークスクーターの事である。設計が古いので、給油のたびに2ストロークオイルを混ぜなければならないのだ。
ベスパはいろんな映画などでも登場し、一番有名なのはオードリーヘップバーン主演のローマの休日で二人乗りをしているベスパだろう。(あれはフェンダーライトというライトが文字通りフェンダーについている旧モデル)あとは松田優作が探偵物語で乗っていたP150だろう。あれはベスパといっても新しい型である。つまり歴史のある由緒正しきスクーターなのである。基本的に鉄でできているので板金塗装でいつでも新車に生まれ変わるのである。ちなみに今回購入したベスパは1972年式でした。
タイに居ついて約5ヶ月。遂にベスパ購入計画を始動させる時が来た。しかしベスパのことを知っている友達もなく、まずはインターネットで検索した。偶然ヒットした中華街にある一軒のベスパ屋に向かったのである。ベスパのことは日本で一般的なスモールボディの再生産モデルについては知っていたが、海外で一般的なラージボディについては本で見たことがあるだけで、あまりピンと来なかったのである。そこで偶然売り出し中だった、レストア済みのまっ黄色のベスパ150スプリントベローチェを53000Bで衝動買いしてしまったのである。その時はこれがどんなモデルでどんなベスパなのかはさっぱり分かっていなかった。このスプリントベローチェとはアジア等で一番一般的な丸目ライトのぶさいくモデルである。これとよく似たラリー200等は人気があるのだが、あまりに一般的+ぶさいくなルックスからか、おしゃれな若者には敬遠されるモデルなのである。実際タイでもクラシックブームがここ数年起こっており、ほぼ150STDという8インチタイヤのかわいいベスパが主流であり、150スプリント等は中華街の仕事おっさんが主流なのである。しかもカスタムされており、今から考えると超はずかしいベスパだった。(その当時は目立っていいかもとしか考えていなかった)
購入後にはフロントにバンパーを取り付けてスクンビットの渋滞で車にタックルしてもボディに傷がいかないように(僕の方だけ)してバンコクの街を走り回ったのである。このベスパは現在色を換えてオリジナルに忠実に再現(といってもヘッドライトを角目にかえて150スプリント仕様)しており、エンジンも購入時にフルレストアしているだけの事はあり、購入から3年たった今でもクラッチ板とポイント交換以外のエンジンの故障は皆無である。
尚、これからベスパ購入を考えている方に忠告なのですが(もしもいるなら)、ここタイではイタリア製のベスパ以外、インドでピアジオ社からライセンス契約をうけたパジャジというインドベスパがけっこう出回っているのである。パジャジはパジャジでファンがいるのだが、基本的にイタリア製のベスパでないと後々後悔しますのでご注意を。基本的にはベスパのロゴやメーターを取り付けているので外見で見分けるのは難しい。尚、判別方法は自分で調べてみてね。しかしタイのベスパの消耗部品の大部分はパジャジの部品なので、大半はイタリアとインドのハーフベスパだろうと思います。
そして150STDの購入を考えている人、特に1960~1964年の150STDは150スプリントを改造して外見からは判別不能のインチキ150STD(タイでは64(ホックシー)と呼んでます)が相当数でまわっている(半分くらいかも)のでご注意を。見分け方はいろいろありますが、基本的にはエンジン番号(車体番号は打ち換え可能なので参考まで)と、あとはタンクを外したりしないと区別不能です。詳しい判別方法は内緒です。しかしタイの板金技術はすばらしい。あと160GSについても、もったいなくも180SSを改造して150STDのハンドルを移植して160GSもどきにする不届き者がいるのでご注意を!!

(買った当時の写真。ルックスは微妙だけど足には最高の一台。)

(どれだけ走らせてもエンストせず、キックも一発!しかしタイの日差しでどんどん黄ばんでゆく。。)
ベスパの事を知らない人々に簡単に説明しよう、ベスパとは第二次大戦前後にイタリアで生まれたスクーターのことである。もともとは船家具工場→戦闘機メーカーのピアジオ社が航空機技術を取り入れたスチール製のモノコックボディ(車体自体がフレームになっている)に片持ちサスでチェーンを使用せずクランクの動きを直接ギアで後輪に伝えるダイレクトドライブ機構の2ストロークスクーターの事である。設計が古いので、給油のたびに2ストロークオイルを混ぜなければならないのだ。
ベスパはいろんな映画などでも登場し、一番有名なのはオードリーヘップバーン主演のローマの休日で二人乗りをしているベスパだろう。(あれはフェンダーライトというライトが文字通りフェンダーについている旧モデル)あとは松田優作が探偵物語で乗っていたP150だろう。あれはベスパといっても新しい型である。つまり歴史のある由緒正しきスクーターなのである。基本的に鉄でできているので板金塗装でいつでも新車に生まれ変わるのである。ちなみに今回購入したベスパは1972年式でした。
タイに居ついて約5ヶ月。遂にベスパ購入計画を始動させる時が来た。しかしベスパのことを知っている友達もなく、まずはインターネットで検索した。偶然ヒットした中華街にある一軒のベスパ屋に向かったのである。ベスパのことは日本で一般的なスモールボディの再生産モデルについては知っていたが、海外で一般的なラージボディについては本で見たことがあるだけで、あまりピンと来なかったのである。そこで偶然売り出し中だった、レストア済みのまっ黄色のベスパ150スプリントベローチェを53000Bで衝動買いしてしまったのである。その時はこれがどんなモデルでどんなベスパなのかはさっぱり分かっていなかった。このスプリントベローチェとはアジア等で一番一般的な丸目ライトのぶさいくモデルである。これとよく似たラリー200等は人気があるのだが、あまりに一般的+ぶさいくなルックスからか、おしゃれな若者には敬遠されるモデルなのである。実際タイでもクラシックブームがここ数年起こっており、ほぼ150STDという8インチタイヤのかわいいベスパが主流であり、150スプリント等は中華街の仕事おっさんが主流なのである。しかもカスタムされており、今から考えると超はずかしいベスパだった。(その当時は目立っていいかもとしか考えていなかった)
購入後にはフロントにバンパーを取り付けてスクンビットの渋滞で車にタックルしてもボディに傷がいかないように(僕の方だけ)してバンコクの街を走り回ったのである。このベスパは現在色を換えてオリジナルに忠実に再現(といってもヘッドライトを角目にかえて150スプリント仕様)しており、エンジンも購入時にフルレストアしているだけの事はあり、購入から3年たった今でもクラッチ板とポイント交換以外のエンジンの故障は皆無である。
尚、これからベスパ購入を考えている方に忠告なのですが(もしもいるなら)、ここタイではイタリア製のベスパ以外、インドでピアジオ社からライセンス契約をうけたパジャジというインドベスパがけっこう出回っているのである。パジャジはパジャジでファンがいるのだが、基本的にイタリア製のベスパでないと後々後悔しますのでご注意を。基本的にはベスパのロゴやメーターを取り付けているので外見で見分けるのは難しい。尚、判別方法は自分で調べてみてね。しかしタイのベスパの消耗部品の大部分はパジャジの部品なので、大半はイタリアとインドのハーフベスパだろうと思います。
そして150STDの購入を考えている人、特に1960~1964年の150STDは150スプリントを改造して外見からは判別不能のインチキ150STD(タイでは64(ホックシー)と呼んでます)が相当数でまわっている(半分くらいかも)のでご注意を。見分け方はいろいろありますが、基本的にはエンジン番号(車体番号は打ち換え可能なので参考まで)と、あとはタンクを外したりしないと区別不能です。詳しい判別方法は内緒です。しかしタイの板金技術はすばらしい。あと160GSについても、もったいなくも180SSを改造して150STDのハンドルを移植して160GSもどきにする不届き者がいるのでご注意を!!

(買った当時の写真。ルックスは微妙だけど足には最高の一台。)
(どれだけ走らせてもエンストせず、キックも一発!しかしタイの日差しでどんどん黄ばんでゆく。。)
2008年09月24日
パキスタンへ(復路)
ペシャワールからラワールピンディまでをマッハで移動し、すぐさま風の谷フンザに向かうべく、ギルギット行きのバスに飛び乗った。カラコラムハイウェイと呼ばれるチベットまで続く道を、約1日をかけてどんどん高度を上げながら進んでゆくのである。僕が初めて旅に出る前に、バックパッカー雑誌で読んだカラコロムハイウェーに関する記事。その頃はただただ夢の中の話で、そんなとこに行けたらいいなぁ程度にしか思っていなかった場所に、現在実際にいるのである。僕も偉くなったものである。
意外に快適なバスの旅は順調に運び、朝早くギルギットの街に到着し、すぐさまバスを乗り換えてフンザに向かった。景色は遠くに真っ白な山を僕の目に映し出し、透き通るように澄んだ空気はゆっくりと穏やかに流れている。僕の一人旅はここで一応の終点を迎える。そう思うとそぞろに涙を誘うものである。この旅が終わると僕は社会の一部に組み込まれて、いわゆる大人になってゆくのであろうか。
アーリーバードで乗り合いトラックに乗り換えてフンザに到着した。勝新太郎そっくりの主人が経営する宿で、僕はその他の日本人カップルと白人の老婦人カップル達とともに、毎日勝新の奥さんの作る料理を囲んで食卓を共にした。そして僕はそんな奥さんが育てている庭になるりんごの実を、少し後ろめたい気持ちで夜な夜な盗み食いしていた。
ここフンザは風の谷と呼ばれるほどに自然がすばらしく、空気もおいしい。石畳の道においしげるりんごの木。僕は毎日意味もなく町をふらついては、軽いトレッキング気分で山道を散歩した。僕はじっくり噛みしめるように、貴重な時間を贅沢に浪費していた。

(ジャイ子)

(チューイングガムギャング団)

(題名が浮かびませんでした)

(約束をすっぽかされたね。)

(風の谷フンザの風景。標高高すぎ)

(パキスタン北部でカラテ道場発掘。なんでドクロ?)
フンザを発ち、ギルギットで数日過ごした僕は、早くも懐かしいタイに戻るべく、カラコロムハイウェイを再び下り、ラワールピンディを目指したのである。後はもうタイに帰国するだけだった。出発したバスの中で僕はもうすでに旅が終わった気分だった。しかし旅はそんなに簡単に終わらなかった。僕の乗ったバス、それは行きのバスをプルンプルンのプリンと例えるならば、このバスは出来損ないのクッキーなのだった(僕にもよく分からん)。常にギシギシと軋む車体、路面の石の1つ1つを確実に人体に伝える壊れたサスペンションと固い座席。帰りのバス、それは少し感傷気味だった僕をを奈落の底に突き落としたのだった。あまりの乗り心地の悪さに、到着までの10時間という時間がとてつもなく途方もない時間に感じた。
僕はこのバスで異次元空間に迷い込んだ。驚くほどゆっくりと過ぎ行く時間。それに数時間耐えたはずだが、ふと時計に目をやるとたった3分しか進んでいない。見慣れたラワールピンディの街が見えたと思ったその瞬間、それまで見えていたはずの街並みは瞬時に森に変わる。そんなエンドレス地獄を味わった。もうほんとに一生この異次元から出られないのではないかというほどだった。チベットも地獄だったがそれに勝るとも劣らない。バスがボロいという理由だけでこんなにも地獄を味わうなんて。やっぱりそう簡単に旅は終わらないのである。
しかし明けない夜はない。ようやく現実に戻った僕は、遂になつかしのバンコクに帰国し、晴れて社会人として自立してゆくのであった。めでたしめでたし。

(分かるその気持ち。)
意外に快適なバスの旅は順調に運び、朝早くギルギットの街に到着し、すぐさまバスを乗り換えてフンザに向かった。景色は遠くに真っ白な山を僕の目に映し出し、透き通るように澄んだ空気はゆっくりと穏やかに流れている。僕の一人旅はここで一応の終点を迎える。そう思うとそぞろに涙を誘うものである。この旅が終わると僕は社会の一部に組み込まれて、いわゆる大人になってゆくのであろうか。
アーリーバードで乗り合いトラックに乗り換えてフンザに到着した。勝新太郎そっくりの主人が経営する宿で、僕はその他の日本人カップルと白人の老婦人カップル達とともに、毎日勝新の奥さんの作る料理を囲んで食卓を共にした。そして僕はそんな奥さんが育てている庭になるりんごの実を、少し後ろめたい気持ちで夜な夜な盗み食いしていた。
ここフンザは風の谷と呼ばれるほどに自然がすばらしく、空気もおいしい。石畳の道においしげるりんごの木。僕は毎日意味もなく町をふらついては、軽いトレッキング気分で山道を散歩した。僕はじっくり噛みしめるように、貴重な時間を贅沢に浪費していた。

(ジャイ子)

(チューイングガムギャング団)

(題名が浮かびませんでした)

(約束をすっぽかされたね。)

(風の谷フンザの風景。標高高すぎ)

(パキスタン北部でカラテ道場発掘。なんでドクロ?)
フンザを発ち、ギルギットで数日過ごした僕は、早くも懐かしいタイに戻るべく、カラコロムハイウェイを再び下り、ラワールピンディを目指したのである。後はもうタイに帰国するだけだった。出発したバスの中で僕はもうすでに旅が終わった気分だった。しかし旅はそんなに簡単に終わらなかった。僕の乗ったバス、それは行きのバスをプルンプルンのプリンと例えるならば、このバスは出来損ないのクッキーなのだった(僕にもよく分からん)。常にギシギシと軋む車体、路面の石の1つ1つを確実に人体に伝える壊れたサスペンションと固い座席。帰りのバス、それは少し感傷気味だった僕をを奈落の底に突き落としたのだった。あまりの乗り心地の悪さに、到着までの10時間という時間がとてつもなく途方もない時間に感じた。
僕はこのバスで異次元空間に迷い込んだ。驚くほどゆっくりと過ぎ行く時間。それに数時間耐えたはずだが、ふと時計に目をやるとたった3分しか進んでいない。見慣れたラワールピンディの街が見えたと思ったその瞬間、それまで見えていたはずの街並みは瞬時に森に変わる。そんなエンドレス地獄を味わった。もうほんとに一生この異次元から出られないのではないかというほどだった。チベットも地獄だったがそれに勝るとも劣らない。バスがボロいという理由だけでこんなにも地獄を味わうなんて。やっぱりそう簡単に旅は終わらないのである。
しかし明けない夜はない。ようやく現実に戻った僕は、遂になつかしのバンコクに帰国し、晴れて社会人として自立してゆくのであった。めでたしめでたし。

(分かるその気持ち。)
2008年09月21日
怒りのアフガン
ひたすら山の砂漠を土煙をモクモクと上げながら延々と突き進む。土煙と真っ黒な排気ガスを撒き散らすアフガンバスを横目に、僕の乗る乗り合いタクシーはギアを軋ませながらまさしく暴走していた。しばらくクネクネした山道を走った後、僕は自分の目を疑った。僕の目に映る景色、それは壁だった。正しくは壁に見間違えるほどの絶壁の山、それにらせん状の道が左右につづら折りになりながらその壁にへばりついているのである。そのガードレールもない、そして崖下に向かって少し傾斜のついた道をぐんぐんバスを追い越しながら進むのである。もう目も開けてられない。もちろん崖下には車の残骸達。。もはや悶絶寸前である。
そして米軍の検問を数箇所通過しながら、ようやくジャララバードの街についた。この近くのトラボラ地区にはまだまだ現役のタリバンがゲリラ作戦を展開している要注意地区なのである。これだから野蛮な人たちは。。米軍が装甲車に乗って銃座からいつでも発砲可能な状態で街を警戒しているそんな街には僕以外の外人は見当たらず、なんでこんなとこ来ちゃったのかとそぞろに涙を誘うのである。
翌日すぐにこんな街を抜け出し、僕は首都のカブールに向かった。道の途中ではいたるところに戦車の残骸が放置されており、戦争マニアの国の面目を保っていた。首都カブールに着くと、僕は重いバックパックを背負い、ホテルを探しまわった。ほとんど情報を仕入れていなかったために、たかがホテル探しに散々苦労するのである。

(アフガンの夜明け。こんなとこで車故障したら死んじゃうよ~)

(アフガンでもジュースは売っているのだ)

(アフガンで希少な肥満児)

(明日はその光の先にあるのだ)
カブールに来てしまったものの、地図もないのでひたすらと街をうろうろと歩き回っていた。食べ物といえば、羊の串焼きとナン。それ以外に料理がないのである。あるかもしれないが僕には発見できなかった。そんな固い羊の肉をあごが強化されるほど噛みながらこれからの作戦を練っていた。事前に仕入れていた情報では、カブールの北と南はいまだに治安が悪く、運が悪いと死んじゃうかもよ~っていう雰囲気なので、西のバーミアンの古代遺跡に向かうことにした。かの三蔵法師も訪れたというバーミアンである(想像)。あのタリバンがRPG対戦車ミサイルで仏像をぶっとばしたあのバーミアンである。何か胸にグっとくるものがあるではないか。もうこれは行くっきゃない。
宿のおっさんに書いてもらったバスターミナル行きの地図。それを見るだけで明らかに賭けであると分かる。あまりにもデタラメな地図なのである。早朝4時にホテルを出ると、真っ暗な空間意外何もなかった。タクシーも走ってなく、僕はしばらくあたりをビクビクしながらタクシーを捜し求めた。捕まえたタクシーのおやじは超極悪づらで生きた心地がしなかった。運良くバスターミナルに着いた僕は、おっさんにチップをカツアゲされながら足早にタクシーから駆け下りた。
それからの行程はまさしくパリ・ダカールラリーで、砂と山の砂漠をひたすら走るだけだった。地平線の先までつづく山と砂漠。それを越えるとその先にはまったく同じ風景が延々と続いていた。
10時間程度かけて辿り着いたバーミアン。高原に位置するためなのか、透き通った空気、真っ青な空と白い雲。泊まった宿は床がフワフワする土でできた宿で、ベッドは人の形にへこんでおり、もちろんシャワーなんてなかった。ここバーミアンでは水が希少なのである。それ以来僕は切れるように冷たい川での水浴びが日課になっていた。
地雷がまだ埋まってるなんて露知らず、僕はバーミアン遺跡の上に登ったり、ひたすらと町を俳諧していた。風の谷のような、とてもこじんまりとした土でできた村はとても僕のお気に入りとなっていた。

(活気あふれるカブールの市場)

(山にへばりつく土でできた家。これぞエコロジーの極み)

(勉強家の少年。未来の大統領候補)

(ただただ砂漠。思った以上に原始時代)

(羊は重要なタンパク源。牛か豚が食べたい)

(青い空、白い雲、仏像のない古代遺跡)

(羊飼いの少女。絵になるねぇ)

(こじんまりとした村。合格)

(銃弾跡の残る廃墟でうち震えるVW66。右手の遺跡の空間は仏像のあった場所)

(ヤンキー娘達。なめんじゃねえ)
バーミアンすぐ近くにある世界的にも有名なコバルトブルーの湖。面倒くさいという理由で行くのをキャンセルし、僕はカブールに戻ることにした。しかし帰りの車は超激悪で、半端じゃない振動のために僕の脳細胞が再度破壊されるという事件に発展した。何度嘔吐物を口で留めて飲み込んだだろうか。そんなこんなで急にアフガンが嫌になった僕は、急遽パキスタンに戻ることにしたのである。カブールから1日もかからず僕は早くも懐かしいペシャワールに戻ったのである。
そして米軍の検問を数箇所通過しながら、ようやくジャララバードの街についた。この近くのトラボラ地区にはまだまだ現役のタリバンがゲリラ作戦を展開している要注意地区なのである。これだから野蛮な人たちは。。米軍が装甲車に乗って銃座からいつでも発砲可能な状態で街を警戒しているそんな街には僕以外の外人は見当たらず、なんでこんなとこ来ちゃったのかとそぞろに涙を誘うのである。
翌日すぐにこんな街を抜け出し、僕は首都のカブールに向かった。道の途中ではいたるところに戦車の残骸が放置されており、戦争マニアの国の面目を保っていた。首都カブールに着くと、僕は重いバックパックを背負い、ホテルを探しまわった。ほとんど情報を仕入れていなかったために、たかがホテル探しに散々苦労するのである。

(アフガンの夜明け。こんなとこで車故障したら死んじゃうよ~)

(アフガンでもジュースは売っているのだ)

(アフガンで希少な肥満児)

(明日はその光の先にあるのだ)
カブールに来てしまったものの、地図もないのでひたすらと街をうろうろと歩き回っていた。食べ物といえば、羊の串焼きとナン。それ以外に料理がないのである。あるかもしれないが僕には発見できなかった。そんな固い羊の肉をあごが強化されるほど噛みながらこれからの作戦を練っていた。事前に仕入れていた情報では、カブールの北と南はいまだに治安が悪く、運が悪いと死んじゃうかもよ~っていう雰囲気なので、西のバーミアンの古代遺跡に向かうことにした。かの三蔵法師も訪れたというバーミアンである(想像)。あのタリバンがRPG対戦車ミサイルで仏像をぶっとばしたあのバーミアンである。何か胸にグっとくるものがあるではないか。もうこれは行くっきゃない。
宿のおっさんに書いてもらったバスターミナル行きの地図。それを見るだけで明らかに賭けであると分かる。あまりにもデタラメな地図なのである。早朝4時にホテルを出ると、真っ暗な空間意外何もなかった。タクシーも走ってなく、僕はしばらくあたりをビクビクしながらタクシーを捜し求めた。捕まえたタクシーのおやじは超極悪づらで生きた心地がしなかった。運良くバスターミナルに着いた僕は、おっさんにチップをカツアゲされながら足早にタクシーから駆け下りた。
それからの行程はまさしくパリ・ダカールラリーで、砂と山の砂漠をひたすら走るだけだった。地平線の先までつづく山と砂漠。それを越えるとその先にはまったく同じ風景が延々と続いていた。
10時間程度かけて辿り着いたバーミアン。高原に位置するためなのか、透き通った空気、真っ青な空と白い雲。泊まった宿は床がフワフワする土でできた宿で、ベッドは人の形にへこんでおり、もちろんシャワーなんてなかった。ここバーミアンでは水が希少なのである。それ以来僕は切れるように冷たい川での水浴びが日課になっていた。
地雷がまだ埋まってるなんて露知らず、僕はバーミアン遺跡の上に登ったり、ひたすらと町を俳諧していた。風の谷のような、とてもこじんまりとした土でできた村はとても僕のお気に入りとなっていた。

(活気あふれるカブールの市場)

(山にへばりつく土でできた家。これぞエコロジーの極み)

(勉強家の少年。未来の大統領候補)

(ただただ砂漠。思った以上に原始時代)

(羊は重要なタンパク源。牛か豚が食べたい)

(青い空、白い雲、仏像のない古代遺跡)

(羊飼いの少女。絵になるねぇ)

(こじんまりとした村。合格)
(銃弾跡の残る廃墟でうち震えるVW66。右手の遺跡の空間は仏像のあった場所)

(ヤンキー娘達。なめんじゃねえ)
バーミアンすぐ近くにある世界的にも有名なコバルトブルーの湖。面倒くさいという理由で行くのをキャンセルし、僕はカブールに戻ることにした。しかし帰りの車は超激悪で、半端じゃない振動のために僕の脳細胞が再度破壊されるという事件に発展した。何度嘔吐物を口で留めて飲み込んだだろうか。そんなこんなで急にアフガンが嫌になった僕は、急遽パキスタンに戻ることにしたのである。カブールから1日もかからず僕は早くも懐かしいペシャワールに戻ったのである。
2008年09月20日
闇ツアーとアフガン入国
ペシャワールの街には日本人旅行者にのみ有名なババ爺がいて、このババ爺に頼めば闇ツアーを開催してくれた。そのツアーの内容とはこうだった。
①ここはアフガン?アフガン難民バザール見学
②土の家!アフガン難民キャンプ訪問
③何でも横流し!何でもありの闇市場探索
④武器も手作り!出来立て銃で試し撃ち
⑤これぞパキスタンの美!デコトラ製造工場覗き見
さっそくババ爺に手配を頼んで参加したが、はっきり言ってビックリクリクリだった。そもそもこのエリアは外国人は入れないそうである。それをシレーっとババ爺とともに通過し、土で出来た家が密集する超貧乏アフガン難民キャンプを訪問し、ブルカと呼ばれる服装の女性がたむろするバザール、そして国連の物資を勝手に販売する店、偽ドルや偽クレジットカードを売る店、あげくの果てには10kgくらいのチャラスの塊を売る店(末端価格数千万?)等々飽きのこないレパートリーである。武器を製造販売している町工場では、その場で出来立ての一丁を試し撃ちできた。ライフルを撃ったが、こんなものが当たったら死んじゃうじゃないかというくらいの威力である。それ以来僕は兵隊のかついでいる銃を見るたびに、今までよりも恐怖感を感じるようになったのは言うまでもない。最後にトラック工場を見学したが、あえて言うまでもないのでノーコメントとしようと思う。

(シンさんに熱弁を語るババ爺。この後シンさんに小遣いをねだる)

(うっかりブルカ姿の女の顔を撮ったら夫が殴りかかってくるそうです)

(超アナログ写真家。せめて印画紙は手でちぎらないで)

(一個一個銃を手作り。暴発したらサヨウナラ)
アフガンビザを手に入れた僕に、ついにアフガンに出発する時が来た。しかし出発寸前に一緒にアフガンに行く予定だった主人のアタウラから「やっぱりやーめた」の一言で、結局一人ぼっちで行くことになったのである。そんなことなら日本人宿で情報仕入れとけばよかった。トホホ。
なれど出発と胸に決めたからには出発である。男に二言はないのである。しかしアフガンビザはあるが、アフガンにいく道の許可証を取らなければならない。パキスタンからアフガンまでの地域は、パキスタンであるが山岳部族が支配するトライバルエリアと呼ばれる、部族の掟がすべての北斗の拳ばりの修羅場なのである。まずはトライバルオフィスで許可証だ。まず何をすればよいか。考えたがさっぱり見当がつかないので、ババ爺をひっぱり出して案内役とする。さすがババ爺、あれやこれやという間に許可証、アフガンまでの護衛の兵隊、タクシーまで手配し、すぐに出発の手はずは整った。アフガンまでの道のりには盗賊や危ない人たちが出てくるので武装兵隊は必需品なのだ。(あ~こんなとこ来ちゃったよぉ。)
髭づらの運転手と髭づらの兵隊を連れて僕はアフガンに向けて出発した。ハイバル峠と呼ばれる峠を越えてアフガン国境に向かうのだが、山にへばりつくような道からは、はるか下に車の残骸がたくさん見えるのである。それをガードレールもない道をただひたすら勘を頼りに走らせるのである。対向車がはみ出して来たら、はいサヨウナラ~である。分の悪い勝負ばかりである。
寿命が磨り減っただけで、無事?アフガン国境に到着し、パキスタンのイレグレで判子をもらってアフガン入国である。アフガン側のイミグレでは簡単なインタビューがあり、意外と丁寧な係員にあいさつをしてから、僕はすぐさま乗り合いタクシーに乗りアフガンを目指したのである。

(山の砂漠です。はっきりいって火星です)
①ここはアフガン?アフガン難民バザール見学
②土の家!アフガン難民キャンプ訪問
③何でも横流し!何でもありの闇市場探索
④武器も手作り!出来立て銃で試し撃ち
⑤これぞパキスタンの美!デコトラ製造工場覗き見
さっそくババ爺に手配を頼んで参加したが、はっきり言ってビックリクリクリだった。そもそもこのエリアは外国人は入れないそうである。それをシレーっとババ爺とともに通過し、土で出来た家が密集する超貧乏アフガン難民キャンプを訪問し、ブルカと呼ばれる服装の女性がたむろするバザール、そして国連の物資を勝手に販売する店、偽ドルや偽クレジットカードを売る店、あげくの果てには10kgくらいのチャラスの塊を売る店(末端価格数千万?)等々飽きのこないレパートリーである。武器を製造販売している町工場では、その場で出来立ての一丁を試し撃ちできた。ライフルを撃ったが、こんなものが当たったら死んじゃうじゃないかというくらいの威力である。それ以来僕は兵隊のかついでいる銃を見るたびに、今までよりも恐怖感を感じるようになったのは言うまでもない。最後にトラック工場を見学したが、あえて言うまでもないのでノーコメントとしようと思う。

(シンさんに熱弁を語るババ爺。この後シンさんに小遣いをねだる)

(うっかりブルカ姿の女の顔を撮ったら夫が殴りかかってくるそうです)

(超アナログ写真家。せめて印画紙は手でちぎらないで)
(一個一個銃を手作り。暴発したらサヨウナラ)
アフガンビザを手に入れた僕に、ついにアフガンに出発する時が来た。しかし出発寸前に一緒にアフガンに行く予定だった主人のアタウラから「やっぱりやーめた」の一言で、結局一人ぼっちで行くことになったのである。そんなことなら日本人宿で情報仕入れとけばよかった。トホホ。
なれど出発と胸に決めたからには出発である。男に二言はないのである。しかしアフガンビザはあるが、アフガンにいく道の許可証を取らなければならない。パキスタンからアフガンまでの地域は、パキスタンであるが山岳部族が支配するトライバルエリアと呼ばれる、部族の掟がすべての北斗の拳ばりの修羅場なのである。まずはトライバルオフィスで許可証だ。まず何をすればよいか。考えたがさっぱり見当がつかないので、ババ爺をひっぱり出して案内役とする。さすがババ爺、あれやこれやという間に許可証、アフガンまでの護衛の兵隊、タクシーまで手配し、すぐに出発の手はずは整った。アフガンまでの道のりには盗賊や危ない人たちが出てくるので武装兵隊は必需品なのだ。(あ~こんなとこ来ちゃったよぉ。)
髭づらの運転手と髭づらの兵隊を連れて僕はアフガンに向けて出発した。ハイバル峠と呼ばれる峠を越えてアフガン国境に向かうのだが、山にへばりつくような道からは、はるか下に車の残骸がたくさん見えるのである。それをガードレールもない道をただひたすら勘を頼りに走らせるのである。対向車がはみ出して来たら、はいサヨウナラ~である。分の悪い勝負ばかりである。
寿命が磨り減っただけで、無事?アフガン国境に到着し、パキスタンのイレグレで判子をもらってアフガン入国である。アフガン側のイミグレでは簡単なインタビューがあり、意外と丁寧な係員にあいさつをしてから、僕はすぐさま乗り合いタクシーに乗りアフガンを目指したのである。

(山の砂漠です。はっきりいって火星です)
2008年09月18日
パキスタンへ(往路)
今回の旅の目的はアフガニスタン入国である。バックパッカーをやっていた性格上、どうしてもここだけは押させていたかった。戦争直後でさほど旅行者が出入りしていなかったのでこれは行っとくっきゃないのである。バンコクからパキスタンまでの飛行機で、僕は日本人絨毯屋さんのシンさんに出会った。パキスタン滞在中は彼にいろいろと世話をしてもらうことは以降の文章から分かると思う。
空港に着くと、シンさんは目的地のペシャワールへ、僕はアフガニスタンから戻ってくる時に必要なパキスタンのリエントリービザを取得するために首都のイスラマバードへ向かった。首都のイスラマバードは最近移転された新しい計画都市のためか、そのほとんどが空き地だった。
行列のできるビザオフィスでは、横柄な係員に何度か書き直しを命じられながらも何とか申請を受理され、明日の発行へとこぎつけた。ここイスラマバードは安宿がなく、一番安い宿でも4000円程度かかる。パキスタンの他の都市では500円程度で泊まれる宿がたくさんあるのに、ここイスラマバードだけは特別だった。という訳で節約のためにキャンプ場に併設されていた牢屋のようなコンクリートの部屋で一泊することにした。冷たいコンクリートの床に一枚の布を敷いて、バックパックを高すぎる枕にして眠れぬ一夜を過ごすのだった。なんとも切ないバックパッカー人生である。いつかいい事あるかな。
翌日無事ビザを受け取り、すぐさま改造20人乗りハイエースでペシャワールに向かった。赤茶色の風景の中、ぎゅうぎゅう詰めではあったが、それでも快適な車の旅だった。バスターミナルからは3輪タクシーで目的のスポグメイホテルへ向かった。ここにすでにシンさんが宿をとっているのだった。
ホテルに着くと真っ先にシンさんに屋上まで連れていかれた。ここにはアフガン難民のアタウラ一家という10年来の友人が住む家があった。ホテルの屋上に一軒屋を立てるとはいい根性である。
ペシャワール滞在中は、毎日夜になるとここで薄暗いオレンジ色の電球の照明に照らし出されながら、アフガン絨毯の上でナンとカレーの質素な夕食を食べてていた。そして決まって庭で栽培しているマリファナに酔いながら、アタウラの演奏するアフガン楽器の音色に心をときめかせ、いつも知らず知らずのうちに眠ってしまっていた。
後で知ったことなのだが、ここのホテルは基本的には高級連れ込み宿で、オーナーは有力な麻薬密売人という香ばしいホテルだった。しかもすぐ隣が超強硬派のタリバン支持派のモスクという、とんでもない危険地域である。そういえば自動小銃で武装した髭おっさんが大量にうろうろしてたもんなぁ。ランボーの見すぎだよね。そういえば怒りのアフガンっていうランボー映画あったよなぁ。

(とにかく派手派手なパキスタンデコトラ。やっぱ男は見た目で勝負)

(チャラスを吸引する主人。庭には大量の葉っぱが栽培中)

(超絶テクで決めるぜ!)

(木漏れ日と少女)

(絨毯屋さんのシンさん。絨毯買ってね)

(恥ずかしがり屋の弟とお姉ちゃん)

(手織りの絨毯で食後の一服。幸せなひと時)
空港に着くと、シンさんは目的地のペシャワールへ、僕はアフガニスタンから戻ってくる時に必要なパキスタンのリエントリービザを取得するために首都のイスラマバードへ向かった。首都のイスラマバードは最近移転された新しい計画都市のためか、そのほとんどが空き地だった。
行列のできるビザオフィスでは、横柄な係員に何度か書き直しを命じられながらも何とか申請を受理され、明日の発行へとこぎつけた。ここイスラマバードは安宿がなく、一番安い宿でも4000円程度かかる。パキスタンの他の都市では500円程度で泊まれる宿がたくさんあるのに、ここイスラマバードだけは特別だった。という訳で節約のためにキャンプ場に併設されていた牢屋のようなコンクリートの部屋で一泊することにした。冷たいコンクリートの床に一枚の布を敷いて、バックパックを高すぎる枕にして眠れぬ一夜を過ごすのだった。なんとも切ないバックパッカー人生である。いつかいい事あるかな。
翌日無事ビザを受け取り、すぐさま改造20人乗りハイエースでペシャワールに向かった。赤茶色の風景の中、ぎゅうぎゅう詰めではあったが、それでも快適な車の旅だった。バスターミナルからは3輪タクシーで目的のスポグメイホテルへ向かった。ここにすでにシンさんが宿をとっているのだった。
ホテルに着くと真っ先にシンさんに屋上まで連れていかれた。ここにはアフガン難民のアタウラ一家という10年来の友人が住む家があった。ホテルの屋上に一軒屋を立てるとはいい根性である。
ペシャワール滞在中は、毎日夜になるとここで薄暗いオレンジ色の電球の照明に照らし出されながら、アフガン絨毯の上でナンとカレーの質素な夕食を食べてていた。そして決まって庭で栽培しているマリファナに酔いながら、アタウラの演奏するアフガン楽器の音色に心をときめかせ、いつも知らず知らずのうちに眠ってしまっていた。
後で知ったことなのだが、ここのホテルは基本的には高級連れ込み宿で、オーナーは有力な麻薬密売人という香ばしいホテルだった。しかもすぐ隣が超強硬派のタリバン支持派のモスクという、とんでもない危険地域である。そういえば自動小銃で武装した髭おっさんが大量にうろうろしてたもんなぁ。ランボーの見すぎだよね。そういえば怒りのアフガンっていうランボー映画あったよなぁ。

(とにかく派手派手なパキスタンデコトラ。やっぱ男は見た目で勝負)

(チャラスを吸引する主人。庭には大量の葉っぱが栽培中)
(超絶テクで決めるぜ!)

(木漏れ日と少女)

(絨毯屋さんのシンさん。絨毯買ってね)

(恥ずかしがり屋の弟とお姉ちゃん)

(手織りの絨毯で食後の一服。幸せなひと時)
2008年09月16日
再びカンボジアへ
日本から引越し道具を友達に抱えさせ、2人で100kg近くの荷物を抱えてここバンコクへやって来た。今度は放浪がメインではなく働いてしまおうという作戦も同時進行だった。しかしその前に放浪の締めくくりをするべきである。それが男ってもんである。
今回は前回の旅と違い、1年旅を供にしたNIKON FM3A+35mmF2.0のスナップコンビではなく、僕と同い年同い月生まれのNIKON F2 PHOTOMIC A+魚眼+24mmF2.0+40mmF2.0+75mmF2.5+70-200mmF2.8という本気なのかどうなのかよく分からない機材で向かったのである。尚、今回からフィルムはポジにしました。特に意味はありません。気合の問題です。
久々に訪れたカンボジア。今回はカオサンからのバスを利用してシェムリアップへと向かった。旅行業者の罠なのか、とんでもない大回りをさせられた挙句、到着したのは日付が変わる前だった。シェムリアップと言えば、いつからなのかレンタルバイクでの遺跡入場が禁止されていた。これにはショックを受けたが、しかたなく自転車とチャーター車での遺跡巡りとなった。今回は崩壊が進んだベンメリア遺跡をはじめて訪れ、その圧倒的な姿に心の動揺を隠せなかった。

(超偶然。なんと虹がアンコールワットの上に!合成じゃないよ)

(うっそうとした森に眠るアンコールトム。宇宙の中心なのだ)

(右の2人、意味不明)

(右の子、冷めた目で見ないで)

(森とおっさん。)

(1時間かけて山を登った末の滝。もっと猛々しくできないのか。)

(何だか意味深な写真。緑がきれい)

(牛飼いの少年。が少しピンぼけ)

(キス?なのでしょうか)

(瓦礫の遺跡に差し込む一条の光。かっこいい)

(窓から見える緑色の空間。どれだけの時間が止まっているのか)

(もう崩れすぎて原型をとどめてません)

(色と構図のバランスが絶妙。それとも微妙?)

(泰造墓への道標がいつの間にか!)

(こっちも嬉しくなるね)
今回は前回の旅と違い、1年旅を供にしたNIKON FM3A+35mmF2.0のスナップコンビではなく、僕と同い年同い月生まれのNIKON F2 PHOTOMIC A+魚眼+24mmF2.0+40mmF2.0+75mmF2.5+70-200mmF2.8という本気なのかどうなのかよく分からない機材で向かったのである。尚、今回からフィルムはポジにしました。特に意味はありません。気合の問題です。
久々に訪れたカンボジア。今回はカオサンからのバスを利用してシェムリアップへと向かった。旅行業者の罠なのか、とんでもない大回りをさせられた挙句、到着したのは日付が変わる前だった。シェムリアップと言えば、いつからなのかレンタルバイクでの遺跡入場が禁止されていた。これにはショックを受けたが、しかたなく自転車とチャーター車での遺跡巡りとなった。今回は崩壊が進んだベンメリア遺跡をはじめて訪れ、その圧倒的な姿に心の動揺を隠せなかった。

(超偶然。なんと虹がアンコールワットの上に!合成じゃないよ)
(うっそうとした森に眠るアンコールトム。宇宙の中心なのだ)

(右の2人、意味不明)

(右の子、冷めた目で見ないで)

(森とおっさん。)
(1時間かけて山を登った末の滝。もっと猛々しくできないのか。)

(何だか意味深な写真。緑がきれい)

(牛飼いの少年。が少しピンぼけ)

(キス?なのでしょうか)

(瓦礫の遺跡に差し込む一条の光。かっこいい)
(窓から見える緑色の空間。どれだけの時間が止まっているのか)

(もう崩れすぎて原型をとどめてません)

(色と構図のバランスが絶妙。それとも微妙?)
(泰造墓への道標がいつの間にか!)

(こっちも嬉しくなるね)
2008年09月16日
ミャンマーからタイまで
ミャンマーの空港では強制両替、つまり強引に100$をミャンマーチャットへ両替しなければならないとう途上国ならではのシステムがいまだにあった。僕はヤンゴンのスーレーパゴダというミャンマー仏教の中心的寺院のすぐ近くに宿をとり、しばらくゆっくりしてから世界三大石造遺跡のあるバガンへと向かったのである。移動は基本的にバスであり、各都市が異常に離れているために移動には10時間とかかなり長い時間を必要とした。しかも移動のバスは時に日本の幼稚園バスであり、バスの入り口に乗車定員大人2名幼児26名とか書かれているバスに大人ばかりがひしめきあって乗るのである。
しかしミャンマーの人たちは人当たりがとてもいい。みんなにこやかで何だか心温まる国である。クレージーガバメント&グッドピープルとは良く言ったもんである。バスが故障しても誰も怒らない。タイヤがパンクしてもイライラしない。運転手が歌を歌っていても気にしない。時間がゆっくりなのである。この国は。
バガンに到着した僕はすぐに情報ノートに書かれていた宿を訪ねた。ここの主人は足が不自由でしかも嫁さんに先立たれたためにしばらく酒に溺れていたらしく、めっきり評判が悪かったが、最近心を入れ直してまじめに働いているそうである。事実その通り、安い宿代、おいしいご飯、素敵なもてなし。僕はホスピタリティという言葉を感じていた。やっぱり人間こうでなきゃ。
バガン遺跡とは見渡す限りの草原に、無数(無数といっても実は300個くらい)の塔だかお寺だかが点在している一帯の名称である。このだだっ広い草原を僕は自転車でこぎ出し、すぐに後悔していた。あまりに広く、あまりに暑い。しかもどの仏塔もあまり大差なく、おっきいか小さいかの差があるくらいにしか僕は感じなかった。しかし一番高い仏塔の上に立ち、僕はなぜこの遺跡が世界三大石造遺跡と呼ばれるかが分かった気がする。360°のパノラマに、見渡す限りの草原と仏塔。何とも言えない清清しさが僕の荒れていた心を一陣の風のように吹き去った気がした。

(寺と花。仏塔の上からの写真は普通すぎるので掲載しません)

(なんとスローな人生なんでしょう。)

(背後霊かと思ってしまった。)
数日バガンに滞在した僕は、その後インレー湖のあるニャウンシュエでただひたすら自然の美を探究し、カロー・アマラプラと寄り道をしながらマンダレーに到着した。ここではピーナッツと桜エビの入った激マズカツ丼を食べたぐらいしか記憶になく、今となっては行ったかどうかも定かではない。

(勝手に祭りに参加したあげく、ただ飯頂戴)

(風景は抜群!のニャウンシュエ。もちろん文明と反比例)

(一時停止。そして巻き戻し!)

(いつも夕方になると村人は皆夕日を眺めていたなぁ。いい。)

(熱っ!)
そして僕は一年の旅を締めくくるべく、タイに戻り、旅の疲れを癒したあげく、性懲りもなくカンボジアに出入りしたために軍資金不足で強制送還となったのである。そして僕は1年半の充電期間の後、タイに居ついてやろうと決起してやって来たのである。果たしてこれが吉とでるか凶と出るかはマイカオチャイ。

(記念写真。いつか持って行ってやろうと思い、かれこれ数年が。。)

(もみあげラーメンマン作成。カオサンにて)
しかしミャンマーの人たちは人当たりがとてもいい。みんなにこやかで何だか心温まる国である。クレージーガバメント&グッドピープルとは良く言ったもんである。バスが故障しても誰も怒らない。タイヤがパンクしてもイライラしない。運転手が歌を歌っていても気にしない。時間がゆっくりなのである。この国は。
バガンに到着した僕はすぐに情報ノートに書かれていた宿を訪ねた。ここの主人は足が不自由でしかも嫁さんに先立たれたためにしばらく酒に溺れていたらしく、めっきり評判が悪かったが、最近心を入れ直してまじめに働いているそうである。事実その通り、安い宿代、おいしいご飯、素敵なもてなし。僕はホスピタリティという言葉を感じていた。やっぱり人間こうでなきゃ。
バガン遺跡とは見渡す限りの草原に、無数(無数といっても実は300個くらい)の塔だかお寺だかが点在している一帯の名称である。このだだっ広い草原を僕は自転車でこぎ出し、すぐに後悔していた。あまりに広く、あまりに暑い。しかもどの仏塔もあまり大差なく、おっきいか小さいかの差があるくらいにしか僕は感じなかった。しかし一番高い仏塔の上に立ち、僕はなぜこの遺跡が世界三大石造遺跡と呼ばれるかが分かった気がする。360°のパノラマに、見渡す限りの草原と仏塔。何とも言えない清清しさが僕の荒れていた心を一陣の風のように吹き去った気がした。

(寺と花。仏塔の上からの写真は普通すぎるので掲載しません)

(なんとスローな人生なんでしょう。)

(背後霊かと思ってしまった。)
数日バガンに滞在した僕は、その後インレー湖のあるニャウンシュエでただひたすら自然の美を探究し、カロー・アマラプラと寄り道をしながらマンダレーに到着した。ここではピーナッツと桜エビの入った激マズカツ丼を食べたぐらいしか記憶になく、今となっては行ったかどうかも定かではない。

(勝手に祭りに参加したあげく、ただ飯頂戴)
(風景は抜群!のニャウンシュエ。もちろん文明と反比例)

(一時停止。そして巻き戻し!)
(いつも夕方になると村人は皆夕日を眺めていたなぁ。いい。)

(熱っ!)
そして僕は一年の旅を締めくくるべく、タイに戻り、旅の疲れを癒したあげく、性懲りもなくカンボジアに出入りしたために軍資金不足で強制送還となったのである。そして僕は1年半の充電期間の後、タイに居ついてやろうと決起してやって来たのである。果たしてこれが吉とでるか凶と出るかはマイカオチャイ。
(記念写真。いつか持って行ってやろうと思い、かれこれ数年が。。)
(もみあげラーメンマン作成。カオサンにて)
2008年09月14日
バングラデシュからミャンマーまで
バンクラデシュの空港に降り立って気づいたのだが、何が何だか分からない。しかももう夜の10時である。ダッカの街まではどのくらいで、宿はどこにあるのか、見所はどこなのか。こんな大事な事に今頃気づく鈍感さ。まぁ来てしまったのでしょうがないということで、偶然日本人を発見したので、そいつのガイドブックを頼りに、とりあえず街へと向かった。しかし目的の宿には行かず、バックマージンのたくさん取れる新市街の高級ホテルに連れて行くタクシーの運転手。ふざけんじゃねーとやり直しさせて、その後スラムのような街中を走って目的の宿に着いた。約束よりも2倍の額を請求したきたがこれは無視してすぐに部屋に入って今後のプランを練った。
翌日街をぶらついていて気づいたのだが、常に人の気配と視線を感じるのである。後ろを振り返ると20人くらいの人間が後をつけてくるではないか。風景を見ようと川辺で立ち止まると、たちまち人だかりである。そして必ず英語をしゃべる奴が出てきて「アーユージャパニーズ?ベリーグッド」という台詞を話すのである。どこに行くにも常に誰かが尾行してくるのである。悪気はないのであろうが、もううざいったらしょうがない。ということで僕はそれ以来歩くのが早くなった。
偶然歩いていると、片言の日本語を話すシムルさんというおっさんが話し掛けてきて、やたらと家に誘うではないか。少し不安だったけど、いい奴っぽいのでついていくと、意外にもいい家に住んでいるエリート会社員の様子。しかも日本に何度か仕事で行ったことがあるので日本が大好きと言う。その証拠に日本で買ってきたケロケロケロッピの時計が腕にキラリと光る。その家で飯をご馳走になったり、友達の医者の家にお邪魔して、友達の医者のリアル頭蓋骨を用いての腹話術を見たり、会社に連れていってもらって、社長にご飯ご馳走になったりといろいろとお世話になった。

(噂のシムルファミリーです)

(カメラを向けるとこんな事になってしまいます)

(ダッカの旧市街はもうてんやわんや)

(やっぱりてんやわんや)

(捕まっちゃった悪い人たち。悪い事はダメ!)

(さとうきびを奪い合わないで!)

(ソース顔の人たち。)

(たぶんカラーで撮っても白黒なんだろうなぁ)

(宇宙人捕獲Ⅱ)
その後シムルさんの薦めで船に乗って世界遺産のあるバゲルハットへ向かうことにした。廃墟のようなオフィスでチケットを購入し、時間通りに指定の場所に向かった。そして僕は目をひんむいた。シムルはクラシックシップと言っていたが、ただの難民船である。しかも何か横に水車みたいなものが左右についているじゃないか。後日知るのだが、この船は世界中でもここでしか乗れないらしかった。それはそれで貴重な体験かもしれない。
僕は個室をとっていたのだが、30分おきにバングラ人がドアを叩き話しにやってくる。僕は君達の暇つぶしの道具じゃない!って怒りたいところだが、そんな勇気もないのである。

(こんな船が21世紀に存在するとは)
途中モングラーという街で一泊したのだが、そこに日本人の女の子がいたので、ガイドブックを書き写し、今後の準備万端となったのである。そしてバスでバゲルハットへ向かい、世界遺産のモスクを見た。そしてこう感じた。「これが世界遺産?」
そしてダッカに戻った僕は、次なる目的地ミャンマーへと向かった。もちろん飛行機で。陸路じゃ入れてくれないのよね~。

(見つめる少年。アサヒカメラに載っちゃった!)
翌日街をぶらついていて気づいたのだが、常に人の気配と視線を感じるのである。後ろを振り返ると20人くらいの人間が後をつけてくるではないか。風景を見ようと川辺で立ち止まると、たちまち人だかりである。そして必ず英語をしゃべる奴が出てきて「アーユージャパニーズ?ベリーグッド」という台詞を話すのである。どこに行くにも常に誰かが尾行してくるのである。悪気はないのであろうが、もううざいったらしょうがない。ということで僕はそれ以来歩くのが早くなった。
偶然歩いていると、片言の日本語を話すシムルさんというおっさんが話し掛けてきて、やたらと家に誘うではないか。少し不安だったけど、いい奴っぽいのでついていくと、意外にもいい家に住んでいるエリート会社員の様子。しかも日本に何度か仕事で行ったことがあるので日本が大好きと言う。その証拠に日本で買ってきたケロケロケロッピの時計が腕にキラリと光る。その家で飯をご馳走になったり、友達の医者の家にお邪魔して、友達の医者のリアル頭蓋骨を用いての腹話術を見たり、会社に連れていってもらって、社長にご飯ご馳走になったりといろいろとお世話になった。
(噂のシムルファミリーです)

(カメラを向けるとこんな事になってしまいます)
(ダッカの旧市街はもうてんやわんや)
(やっぱりてんやわんや)

(捕まっちゃった悪い人たち。悪い事はダメ!)

(さとうきびを奪い合わないで!)

(ソース顔の人たち。)

(たぶんカラーで撮っても白黒なんだろうなぁ)
(宇宙人捕獲Ⅱ)
その後シムルさんの薦めで船に乗って世界遺産のあるバゲルハットへ向かうことにした。廃墟のようなオフィスでチケットを購入し、時間通りに指定の場所に向かった。そして僕は目をひんむいた。シムルはクラシックシップと言っていたが、ただの難民船である。しかも何か横に水車みたいなものが左右についているじゃないか。後日知るのだが、この船は世界中でもここでしか乗れないらしかった。それはそれで貴重な体験かもしれない。
僕は個室をとっていたのだが、30分おきにバングラ人がドアを叩き話しにやってくる。僕は君達の暇つぶしの道具じゃない!って怒りたいところだが、そんな勇気もないのである。
(こんな船が21世紀に存在するとは)
途中モングラーという街で一泊したのだが、そこに日本人の女の子がいたので、ガイドブックを書き写し、今後の準備万端となったのである。そしてバスでバゲルハットへ向かい、世界遺産のモスクを見た。そしてこう感じた。「これが世界遺産?」
そしてダッカに戻った僕は、次なる目的地ミャンマーへと向かった。もちろん飛行機で。陸路じゃ入れてくれないのよね~。

(見つめる少年。アサヒカメラに載っちゃった!)
2008年09月14日
ラオスからタイ・バングラデシュまで
ラオスに入国し、僕は辺境にあるムアンシンという町を目指した。無安心。なんだかドキっとする名前の町だが、ここはラオスの山岳少数民族がたくさん暮らす田舎町である。以前はオピウムなどの薬をやるために来る旅行者が多かったそうだが、今はそうでもないらしい。はっきり行って何にもない町なのだが、僕は自転車を借りては少数民族の村を訪ねていた。夜は8時になると電力の供給がストップして町中がまっくらになり、何だかすごい田舎に来ている気分がした。

(まずはまる。そして助けを待つ。こんなスタイルだそうです)

(戦後の日本じゃないよ)

(無邪気だよね~。いつから忘れていくんだろう、その気持ち)
そして僕は移動を開始し、世界遺産の街ルアンプラバンへと向かった。向かうバスは満員で、僕は通路に置いたプラスチックのイスに座って耐えていた。ルアンプラバンはお寺がとっても多くて、僧侶の早朝の托鉢が有名だそうである。お寺には興味がないが、僕は早起きして托鉢の見物に出かけた。しかしこの僧侶の人数。僕ならシカトするだろうに。僧侶達はたくさんの観光客の放つフラッシュに慣れているようで、もはや一大観光名所である。

(それにしても人数多すぎ)

(船から不思議な人間を見るような目の坊主)
ルアンプラバンに数日滞在した後、僕はラオスで出会った仲間達とポーンサワンという町にあるジャール平原と呼ばれる謎の古代遺跡を訪ねることにした。ここには無数の謎の壺のような石が散乱しており、もう何が何だかという感じで誰もその謎を解明していないらしい。
僕達はその謎の遺跡でかくれんぼや壺の上で昼寝など、まったく関係のないことをしていた。これが青春なのだろう。しかしここまで来る道がひどかった。途中からは道がぐっちゃぐちゃなために、ロシア製の超巨大トラックに乗り換えてから向かったのである。一面泥の海をひどく傾きながら、冷たい風の中を暗闇とともに進むのである。そのためか仲間の一人は、「おばあちゃんが、おばあちゃんが~」と意味不明なうわ言を繰り返していた。

(これぞ姉弟愛なのであるの巻)

(空き缶はゴミ箱に)

(遺跡で昼寝するふとどき者達)
ラオスビザがもうすぐ切れるので今度はここからプロペラのついた飛行機で首都ビエンチャンに向かい、一泊してからタイへ戻ったのである。どう考えてもあの道を再び戻る事は有り得ないのである。
その頃の僕は、旅に関して危機感を覚えることがなくなり、どうも脳内ショートを起こしていたようで、ガイドブックも持たずにバングラデシュへと乗り込んだのである。何とかなるだろうと鷹をくくっていたのである。(あー僕のバカ~)

(まずはまる。そして助けを待つ。こんなスタイルだそうです)

(戦後の日本じゃないよ)
(無邪気だよね~。いつから忘れていくんだろう、その気持ち)
そして僕は移動を開始し、世界遺産の街ルアンプラバンへと向かった。向かうバスは満員で、僕は通路に置いたプラスチックのイスに座って耐えていた。ルアンプラバンはお寺がとっても多くて、僧侶の早朝の托鉢が有名だそうである。お寺には興味がないが、僕は早起きして托鉢の見物に出かけた。しかしこの僧侶の人数。僕ならシカトするだろうに。僧侶達はたくさんの観光客の放つフラッシュに慣れているようで、もはや一大観光名所である。
(それにしても人数多すぎ)

(船から不思議な人間を見るような目の坊主)
ルアンプラバンに数日滞在した後、僕はラオスで出会った仲間達とポーンサワンという町にあるジャール平原と呼ばれる謎の古代遺跡を訪ねることにした。ここには無数の謎の壺のような石が散乱しており、もう何が何だかという感じで誰もその謎を解明していないらしい。
僕達はその謎の遺跡でかくれんぼや壺の上で昼寝など、まったく関係のないことをしていた。これが青春なのだろう。しかしここまで来る道がひどかった。途中からは道がぐっちゃぐちゃなために、ロシア製の超巨大トラックに乗り換えてから向かったのである。一面泥の海をひどく傾きながら、冷たい風の中を暗闇とともに進むのである。そのためか仲間の一人は、「おばあちゃんが、おばあちゃんが~」と意味不明なうわ言を繰り返していた。
(これぞ姉弟愛なのであるの巻)

(空き缶はゴミ箱に)
(遺跡で昼寝するふとどき者達)
ラオスビザがもうすぐ切れるので今度はここからプロペラのついた飛行機で首都ビエンチャンに向かい、一泊してからタイへ戻ったのである。どう考えてもあの道を再び戻る事は有り得ないのである。
その頃の僕は、旅に関して危機感を覚えることがなくなり、どうも脳内ショートを起こしていたようで、ガイドブックも持たずにバングラデシュへと乗り込んだのである。何とかなるだろうと鷹をくくっていたのである。(あー僕のバカ~)


